日本語化(Napoleon)/localisation.loc/1-5000
building_description_texts_long_description_prest_maratha_ajinkyatara \n\nこの大城塞はそびえたつ山の頂上に作られており、いかなる奪取の試みも極めて困難です。水も豊富に供給されているので、長期にわたる包囲戦にも耐えられます。この城塞は周辺の田園地域を完全に支配しており、いかなる敵も目撃されずにマハラシュトラ南部に入り込むことは不可能でしょう。\n\nこれはマラータ帝国の第4代の支配者、シュリマント・シャフー・サンバージ・ラジェ・ブフォンスル・チャトラパティ・マハラージ(1682〜1749)が手に入れた城塞です。シャフー・チャトラパティは、ムガル帝国による捕虜の経験とマラータの内戦の両方を生きのびた人物で、彼は27年戦争の終結時に解放され、マラータの人々に安定と慎重な拡大をもたらしました。子供時代の大半をムガル帝国の名誉捕虜として過ごしたことを考慮すれば、彼の努力は真に称賛に値するものです。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_maratha_shaniwarwada \n\nこの宮殿の名は、マラータ帝国の首相バージー・ラーオが礎石を置いた1730年1月10日が吉兆の日シャニワール(土曜日)であったことにちなんでいます。このワーダ(複合的住居という意味)は決して王のためではなく、首相たちの住居そしてマラータ王国の政権用として建てられました。\n\n工事には惜しみなく金がかけられ、建物のどの扉も最上のチーク材を手彫りしたもので、どの床も最上の大理石でできていました。完成には2年を要し、後の首相たちがさらにこれを拡大して、砦や壮麗な庭園をつけ足しています。シャニワール・ワーダは設計時には城塞と宮殿の両面を兼ね備え、この門から侵入しようとする軍隊は手ごわい防御に直面したでしょう。この建物は現存していますが、以前の壮大な姿は大きく減じられています。1828年の火災で元の建物の多くが損壊し、損傷を受けずに残ったのは花崗岩製の部分だけだったのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_ottomans_naval_engineering_school \n\nこの海軍技術者養成学校はゴールデン・ホーン造船所の訓練校として創設され、スルターンのムスタファ3世の宰相セザイールリ・ガジ・ハサン・パシャ(1713〜1790)とフランス系ハンガリー人の軍事諮問役フランソワ・バロン・ドゥ・トットにより公式な施設に変更されました。これは、イェニチェリとその指導者たちからのかなりの抵抗の中で行なわれた、ムスタファによるトルコの軍事・海軍制度の近代化の試みの一環でした。この学校の教育は素晴らしく、優れた将校を多数輩出しました。\n\n実は学校自体よりも興味深いのは、このハサン・パシャという人物です。彼は東トルコで奴隷として生まれ、それから軍隊で出世を重ねました。彼はアルジェのバーバリ海賊と行動を共にしたこともあり、当時はライオンを飼いならしてペットにしたという逸話があります。1770年のチェスマの戦いでは敗北しましたが、84基の銃を備えた彼の船「レアル・ムスタファ」はトルコ側で戦功をあげた数少ない船の1つでした。彼の経歴は、ムスタファが達成した(限定的な)改革の実行過程で確実に助けとなりました。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_ottomans_nur-u_osmaniye_mosque \n\nこのモスクは1700年代のオスマン帝国で人気が高かった様式で設計されており、1748年にスルターンのマフムード1世がその建設を命じました。彼にとっては不運なことに、モスクが完成したのはオスマン3世がスルタンであった1755年のことで、その建設がおそらく彼の最も重要な業績です。モスク名は「オスマンの光」を意味しており、これはこの多くの窓を持つ壮麗で光に満ちた優雅な建物の建設に彼が投じた金銭面での貢献を称える名です。\n\nほとんどの基準から見ると、オスマン3世は少々変わりものでした。彼は非イスラム教徒に対しては不寛容であることで知られており、帝位につくまでは取るに足らない人物と見なされていました。彼は人生の大半を囚人として宮廷内で過ごしました。音楽を毛嫌いしており、宮廷から音楽家を一人残らず追い出し、宮殿の婦人部屋区域に収監されていたため、女性との付き合いを極めて不快に思っていました。スルタンになると、自分の近付く足音が常に他の者に聞こえるように、彼は鉄製の靴を履くようになりました。近くにいるいかなる女性も、彼の足音を聞いたら彼が通り過ぎるまで、どこかに隠れることを求められました。彼の後任のスルタンはムスタファ3世であり、彼よりは人間的にも支配者としてもはるかに優れた人物でした。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_poland_akademia \n\nこの学校は1765年に選出されたポーランド・リトアニア共和国の最後の君主、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ国王が設立したポーランド最初の国立学校です。スタニスワフ王は、教育の個人と国家にとっての価値を常に信じており、敵に囲まれる中で彼は最善を尽くし、ポーランドにとっての利益を追求しました。\n\nこの学校の出身者として、タデウシュ・コシチュシュコ(1746〜1817)がいます。ベンジャミン・フランクリンは彼を大陸軍に徴用し、彼を軍の技師長に任命しました。彼は様々な戦闘の中でも、特にタイコンデローガとサラトガでの戦いに貢献し、後に陸軍准将に昇進しました。彼はまた米国の市民権、土地、多額の報奨金を手にし、彼は黒人奴隷の解放の支援にこの金を使い、永遠にその名を残しました。それに満足せず、ポーランドに帰国したのち占領していたロシア人への反乱を起こしましたが、この試みは失敗に終わっっています。ロシア皇帝パーヴェル1世は彼を重要で影響力のある人物だと考え、その忠誠の誓いと引き換えに、2万人のポーランド人捕虜が解放されました。1815年に亡命先で無くなる前に、コシチュシュコはポーランドで自らの農奴全員の解放も行なっています。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_poland_lazienki_park \n\nこの公園と庭園を手に入れたのは、選挙によりポーランド・リトアニア共和国の国王兼大公となったスタニスワフ2世アウグスト・ポニャトフスキでした。すでに印象的な公園でしたが、彼はその改造に取り掛かり、ライフワークとして庭園を作り上げ、その壮大さにふさわしい池のほとりに「水辺の宮殿」を建てました。このように水との関わりが深いこの公園内には浴場も建てられていたため、公園は「王室の浴場」という意味の「ワジェンキ公園」と名付けられました。\n\nまたこの庭園は、定期的なスタニスワフ王の一流の芸術家、作家、政治家たちとの晩餐会の会場にもなりました。スタニスワフ王は一種の専制君主でしたが、彼は教育の価値と啓蒙思想を信奉しており、晩餐の際には優れた思想家たちとも交わりました。この公園と宮殿は幸運にも1944年のワルシャワ蜂起後も残りました。ドイツの占領軍はこれを破壊しようとし、ワジェンキ宮殿には火が放たれたものの公園は完全に破壊されることから免れました。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_prussia_berlin_academy \n\nこのアカデミーは、ブランデンブルク選帝侯である王子フリードリヒ3世が長年温めてきた計画でしたが、彼は王室または国家の財源から資金を投入しようとしませんでした。代わりに彼は、賢明にもこのアカデミーに彼の領土内で暦を独占製作・販売する権利を与え、これにより大金ではないが着実に収入が得られるようにしたのです。\n\nフリードリヒが「プロイセン王」になった時、王室がアカデミーのパトロンとなりました。一般には戦争王と考えられているフリードリヒ大王の下、このアカデミーはプロイセン新文学協会(プロイセン・ヌーベル・ソシエテ・リテレール:18世紀にはフランス語が文学・文化の世界では主要言語でした)ならびに王立科学アカデミーと合併しました。また彼は、当時の科学上の難問の追求と解明を奨励すべく、アカデミーの会員に賞金を出しています。アカデミーには独自の実験所や天文台、図書館、手術室(外科手術の公開実演用)、さらに植物標本採集用の庭園が設けられていました。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_prussia_brandenburg_gate \n\nベルリンの本来の城門の一つにあった場所に建造されたブランデンブルク門は、プロイセン王フリードリヒ2世の宮殿に至る大通りウンター・デン・リンデンの端に立っています。この記念碑的な大門は、宮殿に向かう者を威圧し己の卑小さを実感させるべく作られており、君主への謁見を前にプロイセンの偉大さを思い知らせるのが目的でした。\n\n古代ギリシア・ローマの偉業を想起させるべく、古典的様式が意図的に選択されており、四頭立ての馬車「勝利のクァドリガ」の装飾も古代の勝利を暗示し、特にコンスタンティノープルの戦車競技場のクァドリガがモチーフとなっています。これは明らかに力で獲得した平和のシンボルであり、このことは、ナポレオンが1806年にイエナ・アウエルシュタットでの勝利後にこのクァドリガを略奪しパリへと運び去った理由の一つだと見てよいでしょう。ナポレオンがエルバ島に追放されたのちクァドリガは1814年に返還され、それから現在も残る鉄十字の紋章がこれに追加されました。その後ブランデンブルク門は二度の世界大戦を経験したもののが、比較的損傷を受けずに今も残っています。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_russia_kunstkamara \n\nこの博物館はピョートル大帝が発案したものであり、「西洋への窓」として建設されたサンクトペテルブルクの壮大な「冬宮殿」に向かい合う位置に建てられています。この美術館のコレクションは暗く、怪しげですらある雰囲気を漂わせています。なぜならば人間や動物の胎児や死産児といった「自然界の珍品」を大量に取りそろえており、その詳細を調べられるように全てが注意深く保存されているからです。ですが珍しさだけを理由に珍品を集めることが主眼ではなく、ピョートル大帝はロシアの迷信と恐怖心を暴き立てることを望んでおり、こうした状況を後進的で無知なことだと見なしていたのです。\n\n彼は当時の大美術館での古美術品ハンターやコレクターと違い、人造物の収集にはほとんど関心を示しませんでした。それから鉱物、岩石、科学的な道具の一大コレクションも、この博物館「クンストカメラ」に加えられました。この博物館は約1世紀にわたって単一コレクションとして存続しましたが、それから収集品は様々な帝国博物館に分散していきました。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_russia_winter_palace \n\n冬宮殿は、ロシアに適した思想であれば西洋の思想を受け入れるという方針をピョートル大帝が打ち出したことや、西洋の建築・文化・技術を大帝が採用したことからサンクトペテルブルクに置かれました。大帝はこの宮殿をネヴァ河畔の「第三のローマ」の中心的建物、そして全ロシア統治のための新たな帝国の政治の場とすることを望んでいました。宮殿はモスクワのクレムリンのような城塞形式ではなく意図的に宮殿の様式で建てられました。とはいえサンクトペテルブルクの見通しと街路の広さを考えると、宮殿が小部隊でも完全に防衛可能だったのは確かでしょう。\n\n冬宮殿はその後2世紀にわたり、皇帝の公邸として使用されました。帝政ロシア時代の終焉まで、さらにそれ以降もこの宮殿は帝国の政務上重要な役割を果たし続けたのです。1905年の非武装のデモ隊に対する虐殺事件、「血の日曜日事件」は、皇帝が「人民の父」であるかのようなプロパガンダは全く偽りであり、一般の人民の要求は重視していないことを公然と示しました。1917年の十月革命での冬宮殿への攻撃は、ロシア史における象徴的な瞬間、つまりソヴィエト連邦の誕生を決定づける瞬間となりました。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_spain_academia \n\nこのアカデミーは1744年に王室に承認を得ましたが、その場所を以前宮殿であったバロック様式の建物に落ちつけたのはカルロス3世の時代になってからでした。カルロス3世が慈悲深いとはいえ独裁者であり、むしろ狩猟を好む人物だったことを考えると、このことは驚きであるといえます。だが彼は同時に公共事業にも熱心で、そして特に重要なのは反啓蒙主義であるイエズス会と深刻に対立していたことです。彼はスペイン国内でイエズス会を弾圧し、スペインでの異端審問をほとんど無効としました。\n\nアカデミーには多くの著名な芸術家が関与していますが、最も有名なのは巨匠フランシスコ・ゴヤ(1746〜1828)でしょう。ゴヤは並外れた才能の持ち主で、スペイン王室からも注文を受けていました。彼の作品は、「過去の巨匠たち」の作品からそれ以降の近代的絵画への移行を象徴します。残念ながらゴヤは後に難聴や病気に苦しみ、彼の絵画は厳格で陰鬱なものとなっていきました。アカデミーでは現在、15世紀以降の絵画の優れたコレクションを収蔵しています。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_spain_palacio_real_de_madrid \n\nこの建物は、マドリードがコルドバのアミールの支配下にあった時代にはムーア人の城塞として、そしてその後キリスト教徒であるカスティーリャ王たちの管轄下に置かれた時代には城として用いられてきましたが、その頃正式に王族の居城となったことはありませんでした。アルカサル、すなわち古い城の歴史は16世紀に遡りますが、この城は1734年のクリスマスイブに焼失しています。\n\nスペイン・ブルボン朝初の国王フェリペ5世が新たな宮殿の建設を命じましたが、おそらく彼は祖父であるルイ14世のフランスでの宮殿、ヴェルサイユに匹敵する宮殿を構想していたのでしょう。結局彼は工事の完了を待たずに亡くなり、新宮殿に住むことはありませんでした。そして1764年になってカルロス3世がこの宮殿を居城としました。この宮殿は彼が待ち望んだ価値のあるもので、2,800もの部屋を有するこの建物は広大であり、他のヨーロッパの宮殿をはるかにしのぐ規模でした。宮殿は現在もスペインの王室の公邸ですが、国家の行事がある場合にのみ使われています。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_sweden_konglig_museum \n\nスウェーデン王立美術館は、1792年に国王グスタフ3世により設立され、彼の集めた優れた美術品が収蔵されました。現在ではスウェーデンの国立美術館の中核施設となっています。甥がプロイセンのフリードリヒ大王であることから予想されるように、グスタフ3世もまた絶対主義者でした。彼は議会の改革に反対し、ロシアに対し不毛な戦争を仕掛けることで人々の注意を逸らそうとし、大衆の意見を無視しました。彼は劇作家でもあり、音楽、芸術、科学のパトロンで、そうした分野に気前よく出費しましたが、大衆からも貴族からもあまり人気を得られませんでした。彼がそうやって購入した作品が美術館のコレクションとなっています。\n\nグスタフ3世は結局王立歌劇場で貴族連中の陰謀によって暗殺されましたが、この事件自体がジュゼッペ・ヴェルディによるオペラ「仮面舞踏会」の題材となりました。1850年代のイタリアでは君主の暗殺は物議を醸す話題だと考えられたため、政府の検閲によりヴェルディは多くの細部について変更を余儀なくされました。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_sweden_slott \n\n「三つの王冠」と呼ばれた古い要塞のあった敷地に建設された現在の宮殿は、1697年に最初の建物が火災で破壊されたため、実際にはその再建は二度目となります。現在の建物は、ニコデムス・テッシン伯爵が設計しました。彼は有能なバロック建築家兼都市計画者で、このレンガと砂岩の建築を完成させるのにほぼ50年間を費やしました。濠などの凹んだ土地は埋め立てられ、宮殿周辺の都市の大半が再建されました。\n\n宮殿は現在もスウェーデン王室の公邸として使用されており、その609もの部屋には王室武器庫を含む重要なコレクションも収蔵されています。この武器庫はスウェーデン最古の博物館であり、1628年にグスタヴス・アドルフが、ポーランド遠征で用いた武具を保管・展示するために設立しました。王室の様々な部署と王族の住居は今もこの宮殿におかれており、1750年代以降宮殿生活の一部となっている王室近衛兵もここに住んでいます。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_unitedprovinces_kweekschool \n\nオランダ海軍は、16世紀以前からのオランダ貿易船の武装を起源とし、スペインの大君主の命令に真っ向から背くことも度々ありました。独立心の旺盛なオランダ人は、他国から指示されることをよしとしなかったのです。戦闘専門の集権的海軍の歴史は1488年にさかのぼりますが、当時はオランダ海軍が海上の覇権をほぼずっと握っていました。\n\n正式な将校訓練制度は、1785年にこの陸上に本拠を置く訓練施設が創設されるまで開始されませんでした。それまで将校たちは極めて実践的に海上で自らの仕事を学んでいました。短命に終わったバタヴィア共和国の統治下で訓練制度が公式なものとなりましたが、この頃には海上の覇権は英国海軍にすでに奪われていました。それでもオランダ王立海軍大学校が最も名高い海軍学校の一つであり、優れた将校たちを輩出したのは紛れもない事実です。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_unitedprovinces_teylers_museum \n\nスコットランド人の血筋を引き、スコットランドの啓蒙運動の信奉者であるピーテル・テイラー・ファン・デル・フルスト(1702〜1778)は、科学と文化の進展を願って、その財産をコレクションとして遺しました。また彼の遺産でハールレムの貧しい人々のために私設の救貧院が設立されています。\n\n生前彼はこの町に様々な学術団体を創設し、そして当時の多くのジェントルマンと同様に、興味深く骨董的な価値のある物品を大量に集めた「珍品陳列棚」を持っていました。彼が布の交易で築いた巨額の富が、彼が科学と蒐集活動への情熱に耽ることを可能としました。この博物館は彼の関心事を反映したものであり、長年の間に新たな蒐集品が増えたため、今では化石、科学的器具、硬貨、絵画、版画、素描などの見事なコレクションとなっています。ピーテル・テイラーは、「クリスチャン・ジェントルマン」として、寛容で価値ある遺産をこの博物館と救貧院に残したのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_usa_independence_hall \n\nフィラデルフィアの独立記念館は、実際にはペンシルベニアの植民地議会によって州議事堂として建造され、竣工後20年間は英国政府機関の施設となっていました。記念館は赤レンガの堂々たるコロニアル様式で建てられており、新古典主義建築では失われがちな建築としての誠実さと心地よい人間的なバランスが保たれています。\n\n1775年以降、この建物は独立宣言を承認した13植民地の代表者による第二次大陸会議の議事堂となりました。1776年7月に独立宣言の朗読へと市民たちを召集するべく「自由の鐘」が鳴らされたという逸話で有名です。しかしロマンチックな人には残念ですが、当時この建物の尖塔はとても鐘を鳴らせるような状態ではなかったと考えられています。それでもこのエピソードを信じてみたいという人は現在も絶えず、観光の名所となっています。英国が1777年から78年にかけてフィラデルフィアを占拠した時に、議会はこの建物を放棄しました。アメリカ大陸軍により英国の勢力がフィラデルフィアから追い出された1783年に、政府は特別に作られた連邦区域(後のワシントンDC)に移転しました。それがなければ、あるいはフィラデルフィアは現在も米国の首都であったかもしれません。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_usa_smithsonian \n\nスミソニアン博物館は、裕福なパトロンのコレクションを披露したり国威を見せつけるために設立された他の主要博物館とは異なります。この博物館は、アメリカ人でもアメリカへの来訪者でもないある男の遺産なのです。\n\n男の名はジェームズ・スミソン(1765〜1829)といい、彼は、甥が後継ぎを残さずに亡くなった場合、彼の遺産を「人類の知識の増強と拡散」のために使ってほしいという希望を書き遺しました。彼の残した資産はインフレ前の金額で50万ドルを超えており、議会がこの金の使い道を決めるまでに10年近くを要し、そしてワシントンにスミソニアン「城」が完成したのは1855年のことでした。それ以来、スミソニアン博物館は、米国政府資金と民間の寄付によって運営される世界有数の歴史的物品・古文書の保管場所となりました。同館には、民族芸術・民芸品から航空宇宙関連の展示に至るまで様々な専門の支局が20箇所あり、スミソニアン博物館の運営支援は米国副大統領の(数少ない)公務の一つとなっています。 FALSE
building_description_texts_long_description_pTrade1_trading_port_european \n\n大きな貨物は船で輸送されなければなりません。それは安く、比較的速く商品を動かす唯一の方法です。貿易港は国の輸出能力を向上させ、交易価値を増加させます。海上交易路は全世界を市場とするのです。\n\nしばしば、貿易品をどこに輸出するかについて、送る側はよく分かっていないことがあります。その市場がないのにもかかわらず、羊毛布をインドに輸出すると言って譲らなかった英国商人もいました。主要な取引国間での沿岸取引は、英国において利益を上げる簡単な方法でもありました。 「チーズ艦隊」はただロンドンとイングランド北西部の間を往復し、チェシャーチーズをロンドンの台所にもたらしたたたけでした。運よく、チェシャーは地元の名産であったチーズをロンドンまで腐らせずに運ぶのに必要な岩塩鉱があったのです。多少しょっぱくはありますが、これはロンドン紳士が食べるたいていの食品よりも健康的です。 FALSE
building_description_texts_long_description_pTrade2_commercial_port_european \n\n適宜に取引が出来ない商人を助けるため代理人がチャーター船と貨物を取り仕切ることにより、商業港は交易の新しい機会を開くことができます。これは町の富力などを大幅に改善し、しかも全ての地域、そして以前は開くことが出来なかった幾つかの新しい海上交易路を開きます。これは商業的な進歩ですが、しかし問題もあります。下層階級が厳しい労働条件に憤慨するようになり、彼らの幸福度が影響を受けます。\n\n英国におけるブリストルとリバプール、そしてアフリカを加えた悪名高い三角交易は、驚くほど有益なビジネスでした。 加工品、雑貨、銃がアフリカに送られ、そこで原住民の酋長に売られました。そこで奴隷が集められ、悲惨な状況の中で大西洋全域に運ばれていったのです。輸送中に命を落とす奴隷も多い中、生きている者はアメリカやカリブ諸島で売られ、そこで砂糖とラム酒を載せ、英国に戻っていったのです。相当な利益が各交易地で上げられ、取引の非道徳さは結局利益に勝つことは出来ませんでした。1807年に奴隷売買の禁止が英国において制定されましたが、既にいる奴隷が解放されるのは1833年まで待たなければなりませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_pTrade3_trading_company_european \n\n貿易会社はあらゆる種類の貨物を運んだ武装商船の船団を持つ巨大な組織です。この大規模な会社は交易価値を増大させ、輸出量を増やします。そしてターンごとに地域と町の富力を向上させるのです。また造船能力が改善され、利用できる海上交易路の数を増やします。ただ残念なことに、下層階級は会社での彼らの劣悪な労働条件に不満を持ち、幸福度が大いに影響を受けます。\n\n歴史的には、イギリス、フランスとオランダの東インド会社は武力を持った半独立的国ともいえる会社でした。英国の東インド会社は想像を越えるほど裕福で、取引額は英国の国民所得のおよそ六分の一にも及びました。フランスやオランダも同様で、会社自身が陸軍や艦隊を保有していました。英国の東インド会社は現地インドにおいて戦争まで行い、本国の政府にそれを支援する以外の選択肢を与えませんでした。現代の発展途上国に武力を行使する石油化学や工業、傭兵などの民間会社の嚆矢といえます。 FALSE
building_description_texts_long_description_rFarm1_farms_european \n\n借地された農場では、主に換金作物を生産します。地主は借地料が払われることだけを期待していますが、作物の生産に成功した小作農は人知れず裕福になることができます。そうなれば彼らは自分の土地を買うかもしれません。\n\n歴史的には、小作農地はそれなりの収穫を上げることもできましたが、それは自然の天候に左右されるものでした。不作になれば食品の価格が上がり、社会不安を引き起こすこともありました。小作農は数世代にわたり「彼ら」の農地を開発し、その収穫から現金を得てきました。その借地料は地主に払われ、地主は街で贅沢な暮らしを送り、信頼できる代理人と小作人のおかげで自分自身が農場の泥にまみれることはありませんでした。全くのところ、小作人の努力のおかげで農園地主などの有閑階級が現れたのです。フランス革命においては、この地主に長年苦しめられてきた小作農民が血の復讐を行ったのでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_rFarm2_clearances_european \n\n借地された農場では借地料に見合った収入が上げられるだけです。町の規模の拡大に伴う農業製品の需要から、多くの家畜を飼育することができれば更なる利益をもたらすでしょう。特に食肉と羊毛の需要は高いので、空いた土地でこれに応えれば地域の農業力が増加します。\n\n他の問題は考慮に入れず、土地から人々を立ち退かすことができれば、地主が満足する広大な狩猟場を作ることができるでしょう。「ハイランド・クリアランス」は地主が土地から人々を強制的に立ち退かせた最も有名な例でしょう。実際のところそれを行ったのはほとんどが同じスコットランドの貴族たちで、彼らは自分たちの同胞を駆り立てて国外に追いやったのでした。彼らスコットランド貴族は支配者階級としてエジンバラやロンドンで洗練された生活を送ることの代償としたのです。人々の代わりに住んだ羊は、小作人よりも多くの利益を上げられました。 FALSE
building_description_texts_long_description_rFarm3_great_estates_european \n\n大地所は富力を示すもので、出費を省みずに建てられた豪壮な館を備えています。地主と大貴族は家だけでなく、彼らが理想とする周囲の景色を作り出すことを互いに競っています。地形がそれほど印象的ではない場所については、所有者の趣味に合うよう造成されます。そして無情にも下層階級は鹿がいる庭園と馬鹿げた建築のために彼らの家を立ち退かねばならないのです。\n\n歴史的には、歴史的には、ヨーロッパの造園家は彼らの雇い主のために多くの田舎の村落を彼らが望む完全な牧歌的風景に作り直してしました。彼らは自然の景色をファンタジーに置き換え、まったく「人工」(その当時においては非難される用語ではありませんでした)の公園をロマンと愚かさの残骸が散らばるようにするために工夫したのです。その過程では、ランスロット“ケーパビリティ”ブラウンのように丘を造成し、谷を埋め、川を動かし、村を破壊して、無情にも人々を退去させました。これらの驚くべき館と庭園の多くは、今日でもまだ観光名所として存在します。 FALSE
building_description_texts_long_description_rGold1_gold_mine_european \n\n金に対する人間の貪欲さは際限がないように見えます。鉱山には関係のない都会人でさえ、それが生む利益には関心をそそられるのです。それは汚く危険な仕事です。そして鉱山の所有者はすべてその危険を労働者に負わせています。\n\n歴史的には、鉱山の労働で考慮されたのは所有者の利益だけでした。事故は日常茶飯事であり、鉱夫は過酷な環境で休みなく働き、得るものはわずかな賃金だけでした。安全確保のための作業は金にならなかったので、常に省略されていました。支柱は坑道の崩落を防止するでしょうが、彼らにその分の賃金は払われることはなく、それどころか資材費を彼らが負担しなければいけない有様でした。実際のところ、鉱山所有者は蝋燭や工具、火薬の代金さえ鉱夫に負担させることがあったのです。女性や子供も労働者として安い賃金で雇われました。狭い坑道に子供たちが入り込み、女性が荷台を押して行ったのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_rGold2_steam-pumped_gold_mine_european \n\n蒸気式のビームエンジンは汲み上げポンプと連動しており、短時間に大量の水を排出することができ、深い垂直坑の掘削を実用化しました。以前は浅くしか掘削できなかった鉱床も、再び掘り出すことが可能になったのです。蒸気ポンプを備えた金鉱は、その地域の富力に目覚しい貢献を行い、町の富も改善します。しかし鉱夫の労働条件は当時の標準から見てさえ劣悪で、下層階級の幸福度に影響します。\n\nナポレオン戦争の時代には、ビームエンジンは実用されてからすでに80年が経っており、その技術についても十分に理解されていました。鉱山での蒸気機関はコーンウォールのトーマス・ニューコメンが錫鉱山で真空減圧式機関を使ったのが最初ですが、その後ジェームズ・ワットの新方式の機関が発明され、たちまち時代遅れになりました。ワットの機関は非常に効率的でしたが、鉱山所有者が古い機械から置き換えるにはしばらく時間がかかりました。 FALSE
building_description_texts_long_description_rGold3_industrial_gold_mining_complex_european \n\nここでは、金を含有した岩石が掘り起こされることにより採鉱が始まります。鉱石を残らず採掘し、わずかの金を得るためにそれらを溶解します。山腹は全て切り開かれ、多くの労働者が日夜溶鉱炉で作業を行います。その結果、この鉱山は地域と周囲の町の富力を飛躍的に増大させます。しかし、その作業過程は地域の下層階級に負担を強い、不愉快にさせます。\n\n人間の犠牲にも関わらず、鉱山所有者はギリシア神話のクロイソスのような富豪になることができます。鉱山の作業現場に加え、処理場での死亡事故が後を絶ちませんでした。また、岩石を溶解することから有毒な煙が排出され、鉱毒が周囲の土壌と水をを汚染します。そして美しい田園は処理物の堆積地と汚染された池に変わってしまいました。しかし、そこから利益が出る限り、これらは大した問題とはされませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_rHorse1_stables_european \n\n騎兵にとっては馬が全てです。従って、この動物の世話が何よりもまず優先されます。厩舎は地域の農業力を増しますが、畜産は主な目的ではありません。\n\n歴史的には、馬の飼育場は頽廃的な上流階級の象徴とみなされたので、フランス革命の際、国立飼育場は閉鎖されました。ナポレオンが権力を握ったとき、彼はそれを再開して征服した敵から種馬を集め、馬産を始めました。彼は個人でもおよそ80匹ほどの馬を持っていましたが、ほとんどは大人しく扱いやすい馬でした。ナポレオンはコルシカで生まれ育ったため馬術の正式な訓練は受けておらず、彼の乗馬は実際的ではあったものの品格に欠けると評されています。ただしナポレオンについては、彼は将軍として乗馬よりも気を使うべきことが多かったと言えるでしょう。 FALSE
building_description_texts_long_description_rHorse2_stud_farm_european \n\n畜産学の進歩は馬の飼育者の仕事を大いに助け、軍においても相当な規模の軍馬の育成が可能になりました。種馬飼育場ではより少ない仕事でより上質な馬を育てられるようになり、騎兵の補充にかかる費用は安く済み、地域の富力も増加します。\n\n歴史的には、フランスのミディ=ピレネー地域圏のタルブ馬産牧場はナポレオン時代で最も有名な飼育場のうちの一つでした。1806年に軽騎兵連隊に馬を提供するために開場されたのです。従来のメレンス種、クライズデール種に加え、ナポレオン自身によって純血のサラブレッドやアラブ種が集められました。アングロアラブ種の馬が初めて生まれたのがここであり、現在もこの牧場は健在です。 FALSE
building_description_texts_long_description_rHorse3_equestrian_estate_european \n\nこの大規模で宮殿のような調馬場は馬の繁殖と訓練を専門に行い、騎兵の補充をより安価にします。その主な目的は軍馬を騎兵に提供することであり、新しい部隊の編成を可能にします。また騎兵への恵与だけでなく、地域の農業力を大幅に増加させます。歴史的には、\n\nナポレオンは白か葦毛のアラブ種を伝統的なサラブレッドより好み、馬たちはナポレオンを乗せる前に厳しい調馬を受けました。調教師により、ドラムやトランペットなどの軍楽器、発砲音、振られる旗や剣にも動じないように訓練されたのです。馬は戦場で、またそれ以外の場所でも役に立たねばならず、ナポレオンが乗馬を楽しんでいるときに彼を振り落とした馬はほとんどが殺されました。 FALSE
building_description_texts_long_description_rIron1_iron_mine_european \n\n大部分の鉱夫は蝋燭もしくはランプだけの明かりで、地獄のような環境で働いています。鉱山の中には爆発性ガスまたはメタンが空気に含まれており、裸火から引火する爆発の絶え間ない可能性を生じています。また、鉱山の副産物であるヒ素や石塵、有毒物は死の危険をいっそう増しています。\n\n歴史的には、鉱業事故はこの時代珍しいものではありませんでした。鉱夫への安全対策が講じられることはなく、かえって坑道への支柱に使う木材を安全のため余分に使うという名目で、費用を鉱山所有者が鉱夫に請求することすらありました。鉱山で働くのは男ばかりでなく、女性や子供も含まれました。最低な賃金で、水や食料を鉱夫に運んで行ったのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_rIron2_steam-pumped_iron_mine_european \n\n掘削すれば必ず地下水が湧き出しますが、この水は作業にも人命にも重大な危険をもたらします。これを揚水するか排水すれば、鉱夫がより深い、より豊かな鉱床にたどり着けることが出来ます。固定された蒸気式のビームエンジンは深い縦坑を掘るために十分な量の水を排水することが出来ます。これにより鉄が手に入りやすくなり、陸上部隊の雇用もより安価になります。しかし、この機械は下層階級には歓迎されません。彼らは機械が自分たちの仕事を奪うことを恐れているのです。\n\n歴史的には、鉱山での実用的な蒸気ポンプは1710年頃にトーマス・ニューコメンが錫鉱山で真空減圧式機関を使ったのが最初でした。彼の設計には若干の問題があり、熱効率は相当悪いものでした。しかし供給が簡単な石炭で動くという利点があり、広く使用されることになりました。その後より効率的なジェームズ・ワットの新方式の機関が発明され、蒸気機関の基本となったのです。ワットは仕事の上でもマシュー・ボールトンというよきパートナーを得ました。ボールトンは抜け目ない経営管理者としての腕前を発揮し、蒸気機関の特許を広げるよう英国議会をも説得し、彼らは非常な成功者として知られるようになりました。 FALSE
building_description_texts_long_description_rIron3_industrial_iron_mining_complex_european \n\n鉱業においては、鉱山から鉱石を掘削するのは全体の過程の一部分に過ぎません。その後鉱石を溶解し、精錬に至るまでにはさまざまな段階を経なければなりません。製鉄工業施設により鉄とその加工品が手に入りやすくなり、陸上部隊の雇用もより安価になります。\n\n鉱山の所有者は投資からできるだけ多くの金を儲けるために、鉱石に含まれるさまざまな金属を採取しなければなりません。これは様々な過程を一個の施設において作業されねばならないことを意味しました。まず不要な岩石を選別して取り除き、粉砕したあと溶融させます。そうして純度の高いインゴットが鋳造されるのです。これらの仕事は多数の労働者を必要とし、鉱夫たちが鉱山で働く間、女性と子供がより軽い仕事に就きました。坑道での直接作業でなくとも仕事は危険で、死傷する事故も珍しくありませんでした。また粉塵や有毒な煙など常に体を蝕むものがあったのです。しかし安全性はほとんど考慮されることはなく、多くの事故で作業員たちが死んでいきました。 FALSE
building_description_texts_long_description_roads_basic \n\n職がなく、貧しく、怠惰な労働者を使って主要な街道を維持し、車道を改良し、雨水を排水することは公共事業として最低限の工事です。税金をきちんと納めている正直な人間にも、自分たちの税金がこのような形で少しでも役に立つことに使われていると見せる必要があるのです。\n\n歴史的には、道路の改良に関しては常に軍隊の要求が優先されてきました。国外の敵、あるいは国内の暴徒に対処するため、大勢の兵士や大砲の迅速な移動を可能とするために、整備された道路を地方と地方につなぐことは非常に重要なのです。古代ローマやギリシアの業績が見直された啓蒙時代においては、ローマの優れた街道工事を模倣しようという試みも多く見られました。 FALSE
building_description_texts_long_description_roads_cobbled \n\n敷石道の建設は、大変な労力を要します。小さな玉石は1つ1つ形を整え、適切な位置に配置して、モルタルで固めなくてはなりません。しっかりと作るのであれば、この道路には基礎工事、つまり雨水を排出するための傾斜と両側の大規模な排水路が必要となります。こうした作業を経て極めて耐久性の敷石道が完成しますが、石の凹凸があるため、この道は馬車そして歩行者にとって快適に移動できるものではありません。\n\n歴史的には、石の道路には金がかかり、そして完成した道は見栄えがよいので、都市の内部やその近く、または貧しい者のように泥で汚れることがあってはならない「偉大な善人たち」が歩くための道路でこの方式が採用されました。ですが貧しい者たちにとっては、石が別の点で役立ちました。投石には格好の大きさだったのです!道から取り外した玉石は(作りかけの家の煉瓦のかけらと並んで)理想的な投石用の武器となりました。近くに、法と秩序を代表する歓迎すべからぬ人物がいる場合に、非公式な抗議として投げつけたのでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_roads_dust_tracks \n\n旅の手段としての未舗装道路の美点は、それがおそらくどこかに通じているということだけでしょう。ただし土地勘がなければ行く先を知るのは困難です。道標や標識がなければ道の区別を可能とするものはほとんどありません。地元民も一番近くの市場がある町より遠くに行くことはめったになく、そこまで行かない人もいるため、彼らも行く先について限られた知識しか持っていない場合があります。\n\n実際、少なくとも大きな岩や藪は取り除かれているという点で、未舗装道を移動する方が、開けた土地を横切るより多少はましでした。しかし雨天時には未舗装道路は泥だらけの川底と化し、かなり劣悪な道になることもありました。歴史的に見ると、何世紀にもわたって使われた末にすりきれて周囲の自然との境界線がなくなってしまった道路は獣道や畦道と大差ないことがほとんどでした。こうした道は地元の需要は満たしていたものの軍事用には適さず、特に重砲類を動かす際は動くとしてもカタツムリ並みの速度でないと動かないため、少しずつ進むことを余儀なくされました。 FALSE
building_description_texts_long_description_roads_metalled \n\nこの道路は下に行くほど大きくなる石を複数層重ねた構造で、それぞれの階層が圧延によって圧縮されています。この工法により、雨水をきれいに排水できる硬い路面ができあがります。この方法は都市や防衛拠点を結ぶ、軍事上ならびに商業上重要な道の建設に多く用いられました。ですがその維持のため、この素晴らしい道とそのターンパイクを通る民間人には、通行料が課されることがほとんどでした。\n\n歴史的には、1820年にジョン・ロウドン・マカダム(1756〜1836年)がマカダム式舗装を発明し、舗装道路が普及しました。その後、防塵のためにタールで砕石を貼り付けたタール・マカダム舗装が1901年に考案され、路面を安定させられるようになりました。 FALSE
building_description_texts_long_description_roads_metalled_indian \n\n小石で作られているのは最上層だけで、その下には石と粗石を圧縮した層がさらに複数あり、これらの層は施工時だけでなく絶えずその上を通る交通があることによっても圧縮されます。路床自体も十分な排水能力を有し、大量の交通にも、カノン砲のような重いものにも耐えられるのです。\n\n歴史的には、世界でも最も有名で優れた道路は、おそらくインドの『グランド・トランク』と呼ばれる有料道路と通行税取立て所です。幾世紀にも渡って、アフガニスタンとの山がちな国境付近の未開の自然からインド南部の豊かな州に至るまで、インド大陸を支える交易隊そして多くの軍隊がグランド・トランクを行き来しました。またグランド・トランクは、盗賊団の面々にとっての殺人を伴う狩り場でもありました。ヒンドゥー教の女神カーリー神を崇拝する彼らは、彼らを怪しまない旅行者の世話をして安心させ、これを殺害し金品を奪いましたが、それは彼らにとっては神聖な儀式でした。奇妙なことに、この強盗団はヒンドゥー教徒ばかりではなくイスラム教徒やシーク教徒もおり、おそらく彼らは略奪が目的で仲間になっていたようです。 FALSE
building_description_texts_long_description_royal_academy_european_gov_absolute_monarchy \n\nアカデミーは、国の文化・科学のあらゆる側面に関与しています。数学上の極めて抽象的な難問から、自然の驚異の数々、そして言語や辞書編集に至るまで、あらゆるものがアカデミー会員たちの興味の対象となります。会員は既会員たちの推薦ですが、政府がその影響力を行使し名士のために会員の地位を確保する場合もあります。そしてアカデミー側も政府からの支援を確保したいため、王室の人間を会員として受け入れるのです。\n\n大規模プロジェクトには国家の威信がかかっています。アカデミー・フランセーズは、公式のフランス語辞書の校合作業を任されていました。1768年から71年の英国海軍のキャプテン・クックによる大航海の目的の1つは、英国王立協会が希望したタヒチからの金星の日面通過の観測でした。他国は観測隊を特にカナダやシベリアに送っていましたが、クックの目的地ハイチが最善の場所でした。地球の様々な側から日面通過が観測されたことで、視差により太陽系の大きさが計算され、天文単位が確立されました。 FALSE
building_description_texts_long_description_royal_observatory_european_gov_absolute_monarchy \n\n天体の研究は、数学、観測装置、時計、そしておそらく最も重要な分野として航海術と測量法における進歩や改善をもたらしました。正確な星図と月齢表があれば、船乗りは海上での自らの位置を確認することができ、正確に航行できれば海軍はその任務を効果的に遂行できます。また天文台は、国の名声を生み出す場でもあります。天文台での発見が発表されれば、研究に援助した機関や国家のイメージも上がるのです。\n\n歴史的には、天文台は航海術の発展と正確な時計の開発において不可欠な役割を担っていました。ロンドンの王立グリニッジ天文台が0経度の子午線上に建っているのもそのためです。(1884年までは大半の国家が自国独自の参照点を採用していました)実際に、天文学には国家主義的側面があるため、ヨーロッパ以外の天文学者による観測結果や推論が知られていない場合も多かったのです。ウィリアム・ハーシェルは新惑星と思われる星を発見した後、パトロンである国王ジョージ3世に明らかに媚びた「ゲオルギウム・シドゥス」、つまり「ジョージ星」という名をこの星につけました。他の天文学者たちは「ハーシェル」という名でこの新惑星を呼びましたが、後に「天王星」という名前に落ちつきました。 FALSE
building_description_texts_long_description_rTimber1_timber_logging_camp_european \n\n建物は建築資材や建築過程に必要な足場として、大量の木材を必要とします。伐採場は木材を素早く正確に切り出すことを可能にし、建設工事に要する費用を軽減させることができます。また地域の産業に対する重要な貢献も行います。建設資材や燃料としての用途はもちろんですが、木材は造船のためにも不可欠です。この時代の全ての船舶は当然木造であり、上質の船材を数百トンも使用する場合もありました。伐採場は船の建造費も若干ですが抑えることができます。\n\n歴史的には、英国海軍の艦船のマストや帆桁のために必要とされる木材の優れた産地として、バルト海沿岸の森は非常に役立つ戦略的な資源となりました。英国船は樹高の高い木をマストとして必要にしたからです。この必要は、英国人が絶えずバルト海の情勢に干渉することを意味しました。また、木材の中には非常に貴重な種類の物も存在します。極東で見つかる栴檀などがそれで、その強度と美しさのために高額で取引されました。 FALSE
building_description_texts_long_description_rTimber2_timber_lumber_mill_european \n\n水力で動く製材所は、近辺の森から丸太材とノコギリで切り出した板材、角材を生産します。一般には丸太よりも製材のほうが多くの利益をもたらし、それらの木材は地域の産業を増加させます。\n\n土地から価値のある樹木を残らず伐採してしまい森林が消滅すると、その地面は保水能力を失い、強い雨が降れば土壌がすぐに流失してしまいます。そうなるといかに植林しても、もとのような森林を再生することはほとんど不可能になりますが、このようなことは18世紀の終わりでは問題とする人間は誰もいなかったのです。ただし防砂や防風のための植林は早くから行われていたという記録があり、そのような時代の状況にもかかわらず、植林の努力が全くなかったわけではありませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_rTimber3_steam_powered_sawmill_european \n\n蒸気動力の出現により、製材場は水力に頼らなくてすむようになりました。水流のある場所以外でも製材が可能となって生産性は改善され、地域の産業に大きく貢献します。しかし工作機械が出現した結果として労働条件は悪化しました。蒸気機関の発明は製材場の生産性をも改善しましたが、労働者が楽になることはありませんでした。\n\n丸ノコやガングソーの発明は、生材を簡単に加工できることを意味しましたが、これらの機械は過熱や木屑によって簡単に故障するという欠点がありました。この機械は高価なため、ソーファイラーとして知られている新しい製材場技術者の登場につながりました。この技術者は金属加工に非常に熟練し、彼らの主要な仕事はノコギリを完全に作動できる状態に保つことにありました。高速で動くノコギリは非常に危険な産業機械で、死傷事故は珍しくありませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_rWine1_vineyards_european \n\nぶどう園は、ワイン生産専用に使われる農場です。町と都市での質の悪い給水のおかげで、ワインはビールと共に多くのヨーロッパ人の標準的な飲物、そして生活の小さい楽しみのうちの一つになりました。最も金持ちの貴族から最も底辺の農奴まで、アルコールは生きることの不安から人々を紛らわせました。ぶどう園は幸福度を若干改善し、町の富力をわずかに向上させます。\n\n英国でいうクラレット、つまりボルドーワインの起こりはイングランドの君主がボルドーを支配していた中世にまで遡ります。ナポレオンが行った大陸封鎖令で一番の被害を蒙ったのは、フランスのボルドーワインを愛好していたイギリスの酒飲みに他ならないでしょう。19世紀にはアメリカ大陸から運ばれた害虫がぶどうに壊滅的な被害を与えたため、多くの地方でぶどうの品種改良が行われました。今日とは違い、ワインの風味は地方によってさまざまな差異があったのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_rWine2_winery_european \n\nワイナリーはいくつかのぶどう園の収穫から大規模にワインを生産します。そして樽の中にワインを詰め、はるか遠い市場まで多くを出荷します。ワイナリーは地域のすべての階層の人間の幸福度を改善します。\n\nガラス壜は高価で重いため、出荷されたワイン樽を受け取ったワイン販売業者が地方の風味にあったワインをそれぞれビンに詰めていくのが一般的でした。樽は保存も簡単で、分解も容易だという利点がありました。樽の中でワインを寝かせることにより起こる熟成は偶発的に発見されたのです。18世紀にはワインを水で割ることは一般に行われていました。これは風味を軽くするためというより、当時細菌に汚染されていた飲料水をアルコールで殺菌するという意味合いが強いといわれています。また鉛を含む色々な化学製品をワインに加え、甘くすることも常識でした。鉛が有毒であることは既に発見されていましたが、それを禁止するような法律はまだなく、消費者が望むものを業者が付け加えるのに問題となるようなことはありませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_rWine3_wine_estates_european \n\nワイン農園は、ぶどうの木、土地、時間に相当な投資を行います。ワインは丁寧に生産され、慎重に熟成して、プレミアムを付加した上で売られました。ヒック!ワインの生産は、変わりやすい天候や土壌や時間の影響を受けます。ある年は本当にすばらしいワインを生産したかと思えば、次の年は全く生産が不可能になる場合もあるのです。\n\n18世紀後半までにはヨーロッパにおける酒類の消費は多くなる一方でした。英国では摂政王太子(後のジョージ4世)が暴飲大食で知られていたため、臣民は広くそれを真似していたのです。飲料用に適した水が少なかったので、ジョージ王朝時代の英国人は現代からみても大量のワインを飲む習慣があり、その当時蔓延した痛風の原因であると理解されていました。(実際には痛風は高蛋白の食事が原因で、ワインのせいではありません)そしてワインを甘くするために毒性のある鉛化合物を大量に使用したことがおそらく事態を悪化させたのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_sAdmin1_tax_office_european \n\n税務署は決して歓迎される所ではありませんが、存在する地域の抑制が僅かに増加し、また軍部隊の雇用や収税を改善させます。これは政府のための必悪と言えます。憲法がどのように謳おうと、支配階層がどのような考えを持っていようと、金がなくては何もできないのです。\n\n収税は常に嫌われる部門であり、収税吏にはしばしば厳罰を伴う権限があり、人々に税の支払いを奨励してきました。誰もが正直に税を払うわけではないので、これは必要なことだったのです。貧しい者は相対的な意味で金持ちよりも多くの税を払わねばなりませんでした。スペインでは貴族や地主が全く税を払っていないこともあったのです。ナポレオン戦争の時代、所得税は1798年にイギリスで始めて課税されました。1802年に一旦は廃止されましたが、政府は民衆から税金を取り立てる方法をよく覚えているものです! FALSE
building_description_texts_long_description_sAdmin2_magistrate_european \n\n法と治安、税の執行は政府の基本となります。行政官は一人の人間に体現される政府です。彼の任務は税を徴収し、治安を守り、軍の徴兵を監督します。彼は管理者、収税吏、取締人、慈善事業の推進者、徴兵人です。\n\n共和国でさえ行政官は通常上層階級から選ばれるもので、富裕層は彼らの富が揺ぎ無いと確信する必要があるのです。ナポレオンの下では、あらゆる自治区の行政官は慎重に選ばれ、法務省によって監視されて、新しい体制に対する背信行為がないか注視されました。しばしば行政官は地元から遠い行政区に行かせられました。地元との癒着を防ぐためです。英国では正反対で、行政官は地元の上層階級の中から選ばれ、そのため地方の事情に精通するという利点がありました。また非常時には軍隊を出動させる権限も有していたのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_sAdmin3_court_justice_european \n\nこの建物は地域に著しい抑制力をもたらします。さらに、法と秩序の力は収税吏にも大いに役立つので、地域で集められる税金が増加します。最後に、裁判所は軍隊の徴兵をも助ける力があります。法を犯した者に単純な刑罰を与えるのです!\n\n社会的な秩序は、国家を潤滑に運営するに当たってどんな自由よりも重要です。現在から見れば当時の法制度は驚くほど貧弱なもので、裁判所の目的は現在の社会を維持することであり、それはいわゆる社会正義と同一のものではありませんでした。裁判所が法ではなく、原告や被告の社会的地位で判断していたのです。「自由」を謳った英国でさえ、貧しい人々の権利は蔑ろにされがちでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_sAdmin4_court_appeals_european \n\n裁判所は長い歴史が築いた様々な慣習を用いる国の力です。訴えの受理不受理に関わらず、それは抑止力によって地域の秩序を保ちます。国が検察官として国益を損なう人々を訴追し裁判官が判決を下すことは、反逆者に対する効果的な方法でした。また裁判所は収税を改善させ、軍が行う徴兵の助けにもなります。\n\n建前では、裁判所で扱う訴訟は誰にでも公平で、社会的身分にかかわらず法の裁きを受けられることになっていましたが、現実はこのようにはいきませんでした。簡単に言えば、金銭的に恵まれた人間は裁判にかかる費用を負担できるでしょうが、貧しい人々には法廷に出かける費用もなかったのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_sAdmin5_court_supreme_european \n\n法とは人々に自由を与えるのではなく、人々に秩序を守らせるものです。この建物は地域の抑止力を増し、強制できる制裁のために収税をずっと効率的な仕事にします。また軍に兵士を入隊させる恐るべき強制力でもあります。\n\nナポレオンは軍事的才能だけではなく法律の制定者としても有名です。フランス民法は1805年に制定され、近代法の規範となりました。ナポレオン以前においても、フランス革命時の1791年に刑事司法制度が単純化されています。しかしこの制度に関わらず、いつも公正な裁きを受けられたわけではなく、刑事事件の被告人が与えられないこともありました。慣習に支配されることなく、法に基づいて司法判断を下すようになったことは近代への大きな前進となりました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sArmy1_cantonment_european \n\n軍事力を誇示することは全ての国にとって重要なことです。「ファスケス」は掲げることで初めて意味をなすものだからです。国は軍隊を持ち、軍は一般社会から切り離される形で維持されなければなりません。兵士が一般社会に混ざれば、必ず混乱と犯罪が後に続くからです。\n\n歴史的には、軍の宿営所または野営地には軍人でない人間が大勢いました。 糧秣、武器、弾薬、器具類などの出入り業者、荷車、馬匹、雑貨の行商人、案内人や軍付の聖職者のなどです。それらの従軍商人が長い列を作っていたのです。また将兵の家族や、必要悪とも言える売春婦たちもいて、これらの人々が軍の維持には必要であるとされていました。延性に出る将兵には家族への手当金が支給されていましたが、ほとんどの場合妻たちは自活するか、残った財産で生活するかしなければなりませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_sArmy2_barracks_european \n\n兵舎は兵士の家であり、武器庫であり、彼らの軍隊生活のための訓練の場です。一見高圧的であるにしても、軍隊というのは本来保守的なもので、営舎は支配階級の砦であるといえます。地方の行政府は、国内外の全ての敵に対処するため、兵舎に兵士を送りこむのです。\n\n19世紀の始め、多くの政府は国内警備のために軍隊を使用していました。 兵士は秩序を保ち、裕福な上流階層の資産を保護するためにいたのです。それが破られたのはフランス革命のときで、兵士は革命軍として始めて人民の側に立ち、独自の行動をとるようになりました。フランス革命をなした直接的な力は、間違いなく銃剣の威力であるといえるでしょう。 FALSE
building_description_texts_long_description_sArmy3_drill_school_european \n\n教練とは、単に兵士たちを左右に行進させて疲れさせることではありません。彼らは戦場において、統率された動作で乱れなく正確に行動しなければならないのです。命令への服従は、兵士にとって第二の天性でなければなりません。下士官の動向に気を使っているようでは、敵に集中はできません。\n\n教練は、ナポレオン時代の全て国の軍にとって不可欠な要素でした。フランス革命軍でさえ、旺盛な士気だけでは戦いはできないと理解し、最低限の命令系統は確保していました。ただ、教練のためのマニュアルを採用した軍はまだ少なく、少数の読み書きができる士官が個人的に文書にしたものを出版し、その内容で教練を行いました。余禄として、士官は教練本の売り上げで相当な金銭を得ることができました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sArmy4_military_academy_european \n\n多くの国では、軍の上部組織に関わるような人材はほとんど上流階層の子弟に限られていました。それは国家の運営に責任ある人々を置くためですが、同時に能力の面でデメリットもあります。貴族に必ずしもその種の才能があるとは限らないからです。陸軍士官学校は才能を持つ人々を受け入れて、軍隊の理論と実践を教えます。\n\nフランスにおいては有望な士官候補生を育成するために1751年に王立陸軍士官学校が創設され、ナポレオンもそこで学びました。ナポレオンは1802年にフォンテーヌ・ブローに新しい士官学校を開設し、多数の青年士官を養成しました。他方イギリスにおいては士官学校は軍人の子弟にのみ開かれており、父親の跡を継ぐため軍を志願した若者がほとんどでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_sArmy5_staff_college_european \n\n軍の使命は戦いに勝つことですが、軍の運営は役所仕事で足りるものではありません。兵士たちには武器、糧食、衣類、医療、そして訓練が必要です。これは軍の維持には広範囲にわたる運用のノウハウが必要で、高級士官には様々な種類の知識が求められました。戦略の理解はもちろん、測量、馬術、医学、法学、高等数学、語学などが教えられたのです。\n\n多くの国では、このような学校の生徒は上流階層であったため、学費は学生の負担でした。多くの人々の証言によれば、士官学校においてのナポレオンは多くの授業で紳士のようには振舞おうとせず、高慢な教師とみればその鼻を明かそうと情熱を燃やしていたということです。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCannon1_cannon_foundry_european \n\n大砲鋳造場は砲兵の雇用を可能にします。工作機械の発明と鋳造法の改良とで大砲生産が進歩し、大砲の製造は1700年以降大いに盛んになりました。また大砲自体の扱いも研究され、信頼性や命中率は18世紀前半から飛躍したといっていいでしょう。大砲の鋳造は、教会の鐘とほぼ同じ方法によって鋳造されていました。\n\nその後の19世紀はまさに大砲の時代といえますが、大砲の製造そのものの危険性は変わることはありませんでした。鋳型に使う砂がほんのわずか湿っていると水蒸気爆発が起こる危険性がありました。鋳型から飛び散った融解した金属が生身の人間を襲えば死ぬか、よくとも四肢が破壊されました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCannon2_ordnance_factory_european \n\nカノン砲の製造は国家の占有事業であることがほとんどでした。政府以外に大砲を所有する必要がある者はいないからです。大型砲の製造は難しく費用のかさむ仕事であり、その費用が出せる機関も国家だけでした。従って大砲の所有数は国の力を測る尺度であり、生産能力(外国からの購入分ではなく自国での製造分)も同様でした。\n\n歴史的には、大半の兵器工場が王立施設として設立され、各国の国王へのカノン砲の供給源となっていました。しぶとく抵抗する反逆者の城にダメージを与えるにはカノン砲が必要でした。政治体制が変化しても、カノン砲の生産は引き続き国家の監督下に置かれました。掌砲長や兵器長官が王室の一員として、または大臣に近い地位として扱われたことは、大砲が国または王室の名声を示す上で重要な役割を果たした証明です。オスマントルコは大砲類の生産、特に重攻城砲の生産に強い伝統を誇っていました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCannon3_great_arsenal_european \n\n新型カノン砲の開発は費用もかかり、リスクを伴います。大砲の政府による管理と生産は賢明な政策です。大砲のない反乱軍は大した脅威にはなりませんが、強力な大砲があれば反乱が革命へと発展する可能性もあるのです。陸軍(さらに海軍も)が効果的に活動するには大砲が必要です。戦闘において発揮される力は、主に砲兵隊の規模と多様性から測ることができます。\n\n歴史的には、多くの国家の武器貯蔵庫は平時のカノン砲や弾丸や火薬の保管に用いられました。陸軍による国内の平和維持活動に砲兵隊が必要なことはめったになく、カノン砲の砲身は、鋳造後数十年保管した後でも砲架に取りつけ戦闘に使用することが可能でした。火薬も何年も放置されていることがあり、その場合は当然問題が生じていました。武器保管の維持費も問題となっており、兵器部門長官と友人たちが自腹を切るはめになることも頻繁にありました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCannon4_ordnance_board_european \n\n兵器委員会は軍のための設計、開発、大砲の鋳造や部品の保管を担当しています。またここでは陸海軍が使用する火薬の生産も手がけています。大砲は非常に高価で国家の軍事力を象徴するため、兵器委員会は国を動かす重要な一部分です。\n\n歴史的には、攻城兵器や火砲は常に専門家による扱いが必要で、これはただの兵士には勤まらない仕事でした。中世においては兵器長官がこれを担当し、射撃員、測量士、計算員、運搬員、荷馬車の御者など多くの人員を抱えていました。すべての政府機関と同様に、彼らの権限や発言力は時代とともに増していきました。彼らは要塞の管理と、場合によっては国を守るすべての武器の製造をコントロールしました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCannon5_engineer_school_european \n\nこの学校では、測量術、爆発物の扱い、兵器の構造、建築、包囲戦の戦い方、作図等々、技術将校が将来必要とするあらゆる専門的技能を学びます。通常の戦術も教授されますが、技術将校は軍を指揮したり命令したりする役割を期待されているわけではありません。彼らの任務は、大砲の配置を決めたり、敵要塞の防壁の弱点について助言したりすることです。\n\n工兵には砲兵隊の専門家と同様に長い歴史があり、中世からルネサンス期にかけての王室軍においては終身勤務でした。包囲戦では城壁を破壊するための専門家が必要となり、フランスのヴォーバン元帥(1633-1707)と彼の壮大な要塞がきっかけとなって、18世紀には軍隊の技術者が防御法を考案し、敵の防御を突破する必要性は増えました。ヴォーバンとその後継者たちは巧妙で複数の層からなる防御法を発展させましたが、それには熟練の設計術と建築術が必要でした。技術将校が高度な教育を受けた集団となる一方、塹壕掘りのような汚い力仕事は平民出の工兵たちに任されました。 FALSE
building_description_texts_long_description_school_european \n\n多くの社会において教育は権利ではなく、また大した特権だと思われていません。少々の読み書きと狩猟の技術、そして反抗的な奴隷に体罰を与える技術だけが、「立派な紳士」が身につける価値のある技能だとされていました。少しばかり宗教教育が行なわれていることで、上辺は文明的であるかのように見えるのです。\n\n新興の中流および商人階級はより教育に重きを置いており、子弟の教育に金をかけています。頭のよい貧困層の子どもに教育を受けさせたり、孤児にも人生の出発点としての教育を施したりする学校はごく少数であり、その大半が慈善団体や宗教団体からの寄付金で成り立っていました。英国の国家教育とパブリックスクール(実際には非国営の私立学校)制度の名称が紛らわしいのは、この時代に理由があります。パブリックスクールは民衆、この場合は授業料が払える民衆に開かれた学校でしたが、私立学校は学校側が適切だと考える生徒を受け入れていました。英国での大衆向け「国家教育」の開始はそれから1世紀後になります。国家教育が存在する国もありましたが、真の意味ですべての階層に教育を拡大した場合は、従順で忠誠心のある生徒の養成と、学問の発達とのバランスが難しくなるというリスクもありました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture1_Theatre_european \n\n劇場での一夜は、猥雑で騒々しく、乱暴で興奮を呼ぶ珍奇な体験です。劇場は社会を映す鏡ですが、社会は時に鏡に映る姿を不快に思うものです。観客はほとんど芝居に敬意を表せず、俳優も脚本への忠実さを捨てています。それでも、優れた演技や俳優、新作劇については噂好きの人々はを熱心に注視しています。\n\n歴史的には、劇場は当局にとってはトラブルが頻繁に発生する場所でした。不人気で挑発的な芝居が上演されると暴動が起きることも珍しくなく、ロンドン演劇界の大物、デビッド・ギャリックは観衆を怒らせたために彼らの前で土下座して謝罪することを強いられました。彼らが彼の劇場と生計手段を完全に破壊しようとしていたからです。このように大衆は興奮しやすく、そして破壊的なプロパガンダに利用される可能性もあったため、「公衆道徳」の名目で政府は劇場での内容に目を光らせていました。実際に、英国での劇場に対する検閲の廃止は、1968年に大法官府がロンドンの劇場が全ての作品について承認を得る制度を不要と決定するまで実現しませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture2_opera_house_european \n\nオペラハウスは、高度に様式化されたオペラを上演するための壮麗な劇場です。名士はオペラを楽しむためというよりは、むしろ社交のために足を運びます。\n\nオペラハウスを華美な会場とするためには惜しみなく金が費やされます。贅を尽くした家具や備品は、多くの大宮殿に匹敵していますが、それはこうした公的空間が聴衆にとっては公演以上に重要であったからです。演劇的工夫と機械的な仕掛けは、音楽自体にも劣らぬ壮大な舞台を演出しますが、エリート階級にとって歌劇場での夜の本当の楽しみは、ゴシップや策謀や陰口なのです。18世紀にはオペラはイタリア風の「シリアス」なスタイルで上演されていました。この音楽様式が、モーツァルトを含むイタリア以外の国の数々の作曲家にも影響を及ぼしています。筋書きは意図的に単純化されており、悲劇であることが多く、音楽家に出資しているパトロンの好みを満たすよう極めて保守的な傾向にありました。今では廃れてなくなった流行として、カストラートの存在がありました。彼らは声変わりせずソプラノの声を保てるように若い頃に去勢された歌手です。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture2_opera_house_middle_east \n\n詩歌の形式と隠れた寓意を習得するにはかなりの時間を要し、詩歌には参照されるべき三つの言語から生じた豊かな一連の伝統があります。オスマン帝国の『ディバン』という詩では、ペルシャ詩の形式を用い、借用語を多用します(トルコ語はペルシャの押韻法に合わないのです)。\n\nアラビア語の詩歌は実に多様な形式をとりますが、宗教的感性の持ち主が不快にならぬよう、注意深い扱いが必要なものもあります。詩歌は神を賛美することや、正当のイスラム学の習得から目を逸らさせてしまうこともあります。詩歌学校はこうした細かな点までの全てを教授し、才能のある人物にとってはやりがいのある仕事である宮廷詩人を志望する生徒に基礎知識を伝授するのです。当然ながらパトロンを見つけられるかどうかは生徒次第であり、読み書きの力と美しい文字を書く力は大切な能力です。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture3_grand_opera_house_european \n\n音楽公演のための印象的なこの施設において観客は新しい娯楽を楽しみ、後援者たちはその嗜好を賞賛します。音楽は万人のもので、全ての人々の幸福度を改善しますが、最高の特別席でそれを楽しめるのは一握りの上流階級だけです。特に多くの重要人物が訪れる大オペラハウスでは、設備への投資は惜しまれることなく注がれます。この評判が高い建物は、その地域の町の富力を著しく改善します。\n\n18世紀の多くの統治者は芸術、特にオペラの後援を好みました。優れた作曲家(モーツァルト、ヘンデル。スカラッティなど)を輩出したことにより、音楽は大いに進歩しました。作曲家たちは賞賛を、また後援者を得るため楽曲を大貴族へ持ち寄ったのです。ベートーヴェンは交響曲第3番『英雄』をナポレオンへの共感から作曲しましたが、彼が帝位に就くや否や、激怒したベートーヴェンはナポレオンへの献辞の書かれた表紙を破り捨てたという有名なエピソードがあります。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture3_grand_opera_house_middle_east \n\nチューリップはアナトリアが原産地の花で、オスマン帝国では長く珍重されてきました。伝統的な庭園には多くそれが植えられ、素晴らしい形と色を見せていました。庭園の配置は宗教的な楽園を再現することを目的とします。完全な花はその重要な部分で、全ての階層の人間に幸福と平和をもたらします。\n\nオスマン帝国からやってきたチューリップはヨーロッパにおいても栽培され、チューリップ愛好家には高値で取引されていました。17世紀の初頭にオランダで行われたチューリップ取引に投機的な要素が加わり、一つの球根に途方もない値段がつくようになりました。投機が過熱した挙句チューリップ相場は暴落し、含み益は泡と消え、数多くの支払えない債務を背負った者が残されました。それよりは遥かに分別のあるオスマン帝国の人々はこの花をアッラーからの贈り物と考え、その美しさを愛でて楽しんでいました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture4_great_museum_european \n\nここに収められた興味をそそる収蔵品は、歴代の統治者が気まぐれに収集した骨董品、外国人からの贈り物、そして戦勝のさいに持ち帰った若干の戦利品です。また収集にはあらゆる分野において国家の力を誇示するという別の目的もあります。複雑極まりない機械、最高の職人の工芸、そして世界最大級の大砲などです。これは国家の優越感を満たし、すべての人々の幸福度と町の富を改善します。\n\n歴史的には、個人的な博物館やその展示は「驚異の部屋」から発展し、いくつかは国有財産、もしくは王室の財産となりました。世界的に有名な大英博物館がその典型で、もともとは古美術収集家のハンス・スローン卿の収集がその起源でした。彼は死後自分の収蔵品が一般に広く供覧されることを望み、英国政府がそのための博物館を作ったのです。その後も個人の収集家からの寄贈が続き、大英博物館の収蔵品は膨大な数に上っています。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture5_Austrian_Theater \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\nウィーンの中心部にあるこの劇場は、エマヌエル・シカネーダーの努力により建設されました。彼は劇場支配人にして俳優でもあり、モーツァルトの「魔笛」の台本を手がけたこともありました。彼はモーツァルトと旧知の仲であり、オペラの作曲を依頼したのです。この成功によりシカネーダーは大作を上演するようになり、その結果として劇場はより高価な舞台装置を必要とするようになりました。これがシカネーダーの転落の原因となり、結局彼はウィーンの街路で文無しのまま、精神を病んで死にました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture5_British_National_Gallery \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\n歴史的には、英国のナショナル・ギャラリーは銀行家のジョン・ジュリアス・アンガースタインから遺贈された収集物がその始まりです。当初はアンガースタインの邸宅を改装してギャラリーとしていましたが、国立展示館としては非常に狭かったため、英国政府がトラファルガー広場に移設することを決めました。1838年には移転が完了し、その驚くべきコレクションは一般へと開放されています。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture5_French_Musée_Napoléon \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\n歴史的には、ナポレオン美術館の建物は中世まで要塞として使用されていました。フランスをノルマン人の脅威から守るために作られたのです。時代の変遷とともに宮殿として使われるようになったこの建物はルーヴル城と呼ばれていましたが、フランス革命のさなかに美術館として使用されることが決まり、ナポレオンが君臨したときに彼の名が冠せられたのです。ナポレオンはその遠征時に多くの宝物を戦利品として獲得しましたが、彼が没落したあとの1815年になって、多くの国々から宝物の返還が要求されました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture5_Prussian_Universität \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\nプロイセンの教育大臣であったヴィルヘルム・フォン・フンボルトは、1810年にドイツの最も古い大学を設立しました。大学はドイツにおける最大の教育機関となり、伝統的な学問と多くの近代的な専門分野の研究とで、かって見られないほどの成功を収めました。大学はこの2世紀のあいだ偉大な研究者を多く育て、ノーベル賞受賞者は29人にものぼります。 FALSE
building_description_texts_long_description_sCulture5_Russian_Kremlin_Armoury \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\nクレムリン武器庫は1806年以降、博物館として使用されています。アレクサンドル1世はロシアの最初の国立博物館と宣言しましたが、収集物の一般公開までには7年の期間を要しています。建物そのものは1850年代に完成していましたが、収蔵品の多くは15世紀に集められたものです。その中には有名なミーニンとポジャルスキー公の救世のサーベル、イワン雷帝の象牙の玉座が含まれています。 FALSE
building_description_texts_long_description_settlement_fortifications \n\n入植地の防御施設を真の意味で難攻不落とすることはほとんどの場合不可能です。費用や人口増加への対応等の現実的な問題から、都市建設者は都市防衛への十分な投資を行わないものです。その代わりに小規模な攻撃を阻止し敵の進攻を遅らせるための施設が作られます。射界を複数組み合わせれば攻撃軍を要塞前面の斜堤から一掃でき、防御側は相手に大きな打撃を与えられます。入植地の要塞を、突破が可能で町が占拠できるほどに破壊するには、統制のとれた攻撃が必要となります。\n\n歴史的に見ると、町の守備隊には「名誉降伏」が認められることも多く、武器と共に移送されることが許されていましたが、それは彼らが戦闘を止めて降伏した場合のみでした。ただし、攻撃軍がいったん攻撃を開始したら、町と住民と守備隊は、程度の差はあれ略奪行為の格好の的となりました。攻撃は危険な任務であり、その後の無法状態での乱痴気騒ぎが兵士たちにとってある種のご褒美であったのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_settlement_fortifications_improved \n\n大規模な要塞の建設には多大な資金と労力がかかります。町の将来的な存続と繁栄のために維持され必要とされるのでない限り、要塞を建設しても無意味となるでしょう。防壁は安全上有益な設備ですが、収穫が少なく飢えた人々がの暴動が発生した場合には役には立ちません!現実問題として、要塞は国境沿いや戦略上重要な町の周囲に建てられます。こうした要塞は軍事上の最新思想に基づいて設計され、純粋な軍事用要塞に劣らずしっかりと建設されます。これがその地域で問題を引き起こす場合もあり、主要な建設地はを確保するためには広大な空き地を必要とするためです。平和な期間が続けば都市建設者たちは射界となるキル・ゾーンに住宅や商業施設を建てたいという誘惑と戦わなくてはなりません。\n\n歴史的には、フランスのヴォーバン元帥の建設した諸要塞は、その後数世紀に渡り町を見下ろす場所に建っていました。アルザスのストラスブール要塞はその中でも典型的なもので、19世紀末に至るまでフランスとドイツの明確な境界とされていました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sFortifications1_settlement_fortifications_euro \n\nこれらの防御施設は都市への進入路を大砲の射界で覆い、また敵の強襲から守ります。包囲されたとしても、通常よりは長く持ちこたえることができるでしょう。星形要塞の設計は、突き出た稜堡により攻撃者への側面砲火を可能にする射界を形成することを目的にしています。敵は防壁に辿り着く前に壊滅的なまでの砲火を浴びることになります。稜堡の数は次第に増え、「死角」がどの面においても現れないように進化していきました。\n\n歴史的には、星形要塞の最も著名な設計者はフランスの軍人であり技術者であったヴォーバン元師(1633〜1707)でした。 彼の設計した要塞は100を越え、ナポレオンの時代になってもなお堅牢を誇っていました。第一次大戦で有名な戦場になったヴェルダンも彼の手になる要塞都市でした。 FALSE
building_description_texts_long_description_sFortifications2_improved_settlement_fort_euro \n\nこれらの防御施設は町への進入路を大砲の射界で囲み、また敵の強襲から守ります。包囲されたとしても、この町を落とすには長い時間がかかるはずです。星形要塞の設計は、突き出た稜堡により攻撃者への側面砲火を可能にする射界を形成することを目的にしています。敵は防壁に辿り着く前に壊滅的なまでの砲火を浴びることになります。稜堡の数は次第に増え、「死角」がどの面においても現れないように進化していきました。\n\n歴史的には、資金の問題さえ解決すれば星形要塞は幾らでも複雑にすることができ、その様子はバロック様式の死の迷路のようでした。また稜堡の正面に三日月堡や掩郭を置き、防御力を高めました。榴弾による瞰射で稜堡が意味を成さなくなるまで、この方式は城塞の主流であり続けました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sheep_clearances_european \n\n借地された農場では借地料に見合った収入が上げられるだけです。町の規模の拡大に伴う農業製品の需要から、多くの家畜を飼育することができれば更なる利益をもたらすでしょう。特に食肉と羊毛の需要は高いので、空いた土地でこれに応えれば地域の農業力が増加します。\n\n他の問題は考慮に入れず、土地から人々を立ち退かすことができれば、地主が満足する広大な狩猟場を作ることができるでしょう。「ハイランド・クリアランス」は地主が土地から人々を強制的に立ち退かせた最も有名な例でしょう。実際のところそれを行ったのはほとんどが同じスコットランドの貴族たちで、彼らは自分たちの同胞を駆り立てて国外に追いやったのでした。彼らスコットランド貴族は支配者階級としてエジンバラやロンドンで洗練された生活を送ることの代償としたのです。人々の代わりに住んだ羊は、小作人よりも多くの利益を上げられました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sheep_great_estates_european \n\n大地所は富力を示すもので、出費を省みずに建てられた豪壮な館を備えています。地主と大貴族は家だけでなく、彼らが理想とする周囲の景色を作り出すことを互いに競っています。地形がそれほど印象的ではない場所については、所有者の趣味に合うよう造成されます。そして無情にも下層階級は鹿がいる庭園と馬鹿げた建築のために彼らの家を立ち退かねばならないのです。\n\n歴史的には、ヨーロッパの造園家は彼らの雇い主のために多くの田舎の村落を彼らが望む完全な牧歌的風景に作り直してしました。彼らは自然の景色をファンタジーに置き換え、まったく「人工」(その当時においては非難される用語ではありませんでした)の公園をロマンと愚かさの残骸が散らばるようにするために工夫したのです。その過程では、ランスロット“ケーパビリティ”ブラウンのように丘を造成し、谷を埋め、川を動かし、村を破壊して、無情にも人々を退去させました。これらの驚くべき館と庭園の多くは、今日でもまだ観光名所として存在します。 FALSE
building_description_texts_long_description_sheep_peasant_farms_european \n\n農民の日々の生活はこの千年間ほとんど変わっておらず、極貧と重労働の中で短く厳しい人生を送っています。同じ村で死ぬまで働き、同じ畑を耕す以上のことは全く期待できず、見慣れた地平線以外の光景を見ることもなく生涯を過ごします。小規模農場はあまり効率的ではなく、地主はその賃料と十分の一税以外のことにはほとんど関心がありません。問題は、農民は本質的に現金不足でほとんどの収入は現物によるものであり、そしてヤギを飼育できる場所も限られているということです。\n\n歴史的には、農民の生活は世界中でほぼ同じであり、夜明けから夕暮れまで労働が続きました。ロシアでは牛やヤギと同じく地主の土地や資産に縛りつけられた農奴でした。インドでは神聖な習慣によって社会的なカースト制度に組み込まれていました。その後西ヨーロッパではこうした制度は、常に労働者を必要とする産業化ならびに土地の用途の変化が原因で消滅しました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sheep_tenanted_farms_european \n\n借地された農場では、主に換金作物を生産します。地主は借地料が払われることだけを期待していますが、作物の生産に成功した小作農は人知れず裕福になることができます。そうなれば彼らは自分の土地を買うかもしれません。\n\n歴史的には、小作農地はそれなりの収穫を上げることもできましたが、それは自然の天候に左右されるものでした。不作になれば食品の価格が上がり、社会不安を引き起こすこともありました。小作農は数世代にわたり「彼ら」の農地を開発し、その収穫から現金を得てきました。その借地料は地主に払われ、地主は街で贅沢な暮らしを送り、信頼できる代理人と小作人のおかげで自分自身が農場の泥にまみれることはありませんでした。全くのところ、小作人の努力のおかげで農園地主などの有閑階級が現れたのです。フランス革命においては、この地主に長年苦しめられてきた小作農民が血の復讐を行ったのでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_shipyard_european \n\nほとんどの船が造船時に大量の鉄部品を使用しているため、造船所内に鍛冶屋の仕事場が設けてあれば大変役に立ちます。造船所では小型船の製造、修理や保全が可能です。航海後の船体には海草やフジツボがこびりついており、船速が落ち船体が傷みます。造船所には船を空にし、それから汚れをこすりおとし潮で洗うため、浜辺や船台まで引っ張るのに必要な器具が全て揃っています。\n\n歴史的には、造船所は近くに良い材木供給源があるか、内陸から造船所まで木材を船で運べるように航行可能な川の河口に置く必要がありました。英国南部のニューフォレストにあるビューリュー川沿いのバックラーズ・ハードは、この地では典型的な造船所です。ですが多くの造船所よりも大規模で、幅広い職人を抱えており、2つの船を同時に扱うことができました。バックラーズ・ハードの造船工たちはホレーショ・ネルソン提督のお気に入りの船、アガメムノン号を1781年に造船しています。なおその船員の多くは皆提督を慕っており、後に彼が指揮を執った際にも彼に従いました。 FALSE
building_description_texts_long_description_small_arms_factory_european \n\n大人数の軍を召集する場合に武器の供給源を一箇所に集中させるのは賢明な行動です。徴集兵に標準の武器を持たせることで、武器訓練と部隊戦術が規格化され、支給に関わる問題の管理が容易になのです。また、金儲け主義の製造業者の場合にありがちな、粗雑な、または明らかに危険な小火器の納品の可能性が少なくなります。\n\n兵器小工場は民間の武器製造業者にとって代わる存在ではありません。兵士たちは政府製の武器で間に合わせていますが、将校は自分用の武器を購入することも珍しくありません。手工業ベースの武器業者の多くが、裕福な紳士階級向けの特注品製作で利益をあげています。歴史的には、フランスのシャルヴィルならびに英国のブラウン・ベス・ランドパターン社製マスケット銃は際立って素晴らしい設計で、若干の改良はありましたが、それぞれ1世紀以上に渡って使われ続けました。こうした規格化は、戦術、そしてさらに重要な側面として、兵站における大きな進歩をもたらしました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sPrest_Austrian_Heldenplatz \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\n英雄広場(ヘルデンプラッツ)は、オーストリアを統治したハプスブルク家が君臨していたウィーンのホーフブルク王宮に面しています。フランツ・ヨーゼフ1世の治世にヘルデンプラッツは由緒ある宮殿の正面に加えられました。この広場はもっと大きな公園の一部になる予定でしたが、ハプスブルク家が没落するまでついに完成することはありませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_sPrest_British_Nelson's_Column \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\nネルソン記念柱は、トラファルガーの海戦で戦死した国民的英雄ホレーショ・ネルソン提督を記念するために建設されました。建造に3年を要した印象的な円柱は、185フィート(約56m)もの高さがあり、その頂上にはネルソンの彫像が立てられています。ネルソン像はフランスの方角を向いており、死してなおフランスに目を光らせていると言われています。円柱は青銅のアカンサスの葉で装飾され、フランスの大砲を鋳潰して作った4枚のプレートが、ネルソンの生涯における4つの戦いを表しています。 FALSE
building_description_texts_long_description_sPrest_French_Arc_de_Triomphe \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\n凱旋門はナポレオンの発案による建築物で、彼の帝国の勝利を壮大に祝うことを目的としています。完成したのはナポレオンの死後、ルイ・フィリップ1世の時代であった1836年になってからでした。凱旋門の起源は古代ローマですが、パリの凱旋門も帝政ローマの様式を模して作られ、162フィート(約49m)の高さがある世界で最も高い凱旋門としました。その後、第一次世界大戦におけるフランス陸軍の名誉ある死者と行方不明者を追悼する無名兵士の墓が凱旋門に加えられています。 FALSE
building_description_texts_long_description_sPrest_Prussian_Siegessäule \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\n戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)はデンマーク戦争勝利を記念して1864年に建設が始められました。完成は1872年になってからですが、この間に行われた普墺戦争、普仏戦争の勝利をも顕彰する建造物となりました。頂上に立つ勝利の女神ヴィクトリア像は、とくに普仏戦争の勝利を記念して追加されたものです。塔の台座には、勝利の模様を描いた銅版のレリーフが4面に嵌め込まれています。 FALSE
building_description_texts_long_description_sPrest_Russian_Monument \n\n国家の誇りであるこの建築物は偉大であるとともに、建築それ自体が国の偉業を賛美することに他なりません。戦勝の記念や教育、技術の進歩の証、もしくは国宝の収蔵といった業績を世界中に誇示するための舞台なのです。こうした国家の地位というものは外交上非常に重要であり、国力の誇示は名声を向上させます。\n\nこの記念碑は、クジマ・ミーニンとドミトリー・ポジャルスキー公爵によってモスクワからポーランド人を駆逐し、「動乱時代」を終わらせた200周年を記念して建設されました。その資金は、ミーニンの出生地であるニジニ・ノヴゴロドの住民たちが醵出しています。記念碑はニジニ・ノヴゴロドに置かれる予定でしたが、彫像の作者であるイヴァン・マルトスが、この像はモスクワにあるべきだと主張したのです。共産党が支配したソヴィエト時代を経て、今なおこの記念碑は赤の広場に残っています。 FALSE
building_description_texts_long_description_sRoads1_basic_roads_european \n\n職がなく、貧しく、怠惰な労働者を使って主要な街道を維持し、車道を改良し、雨水を排水することは公共事業として最低限の工事です。税金をきちんと納めている正直な人間にも、自分たちの税金がこのような形で少しでも役に立つことに使われていると見せる必要があるのです。\n\n歴史的には、道路の改良に関しては常に軍隊の要求が優先されてきました。国外の敵、あるいは国内の暴徒に対処するため、大勢の兵士や大砲の迅速な移動を可能とするために、整備された道路を地方と地方につなぐことは非常に重要なのです。古代ローマやギリシアの業績が見直された啓蒙時代においては、ローマの優れた街道工事を模倣しようという試みも多く見られました。 FALSE
building_description_texts_long_description_sRoads2_improved_roads_european \n\n敷石道の建設は、大変な労力を要します。小さな玉石は1つ1つ形を整え、適切な位置に配置して、モルタルで固めなくてはなりません。しっかりと作るのであれば、この道路には基礎工事、つまり雨水を排出するための傾斜と両側の大規模な排水路が必要となります。こうした作業を経て極めて耐久性の敷石道が完成しますが、石の凹凸があるため、この道は馬車そして歩行者にとって快適に移動できるものではありません。\n\n歴史的には、石の道路には金がかかり、そして完成した道は見栄えがよいので、都市の内部やその近く、または貧しい者のように泥で汚れることがあってはならない「偉大な善人たち」が歩くための道路でこの方式が採用されました。ですが貧しい者たちにとっては、石が別の点で役立ちました。投石には格好の大きさだったのです!道から取り外した玉石は(作りかけの家の煉瓦のかけらと並んで)理想的な投石用の武器となりました。近くに、法と秩序を代表する歓迎すべからぬ人物がいる場合に、非公式な抗議として投げつけたのでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_sRoads3_tarmac_roads_european \n\nこの道路は下に行くほど大きくなる石を複数層重ねた構造で、それぞれの階層が圧延によって圧縮されています。この工法により、雨水をきれいに排水できる硬い路面ができあがります。この方法は都市や防衛拠点を結ぶ、軍事上ならびに商業上重要な道の建設に多く用いられました。ですがその維持のため、この素晴らしい道とそのターンパイクを通る民間人には、通行料が課されることがほとんどでした。\n\n歴史的には、1820年にジョン・ロウドン・マカダム(1756〜1836年)がマカダム式舗装を発明し、舗装道路が普及しました。その後、防塵のためにタールで砕石を貼り付けたタール・マカダム舗装が1901年に考案され、路面を安定させられるようになりました。 FALSE
building_description_texts_long_description_star_fort_earthworks_european \n\n星形要塞の設計は、突き出た稜堡により攻撃者への側面砲火を可能にする射界を形成することを目的にしています。理論上、敵は防壁に辿り着く前に壊滅的なまでの砲火を浴びることになります。稜堡の数は次第に増え、「死角」がどの面においても現れないように進化していきました。要塞そのものが巨大な殺戮領域だといえます。\n\n歴史的には、資金の問題さえ解決すれば星形要塞は幾らでも複雑にすることができ、その様子はバロック様式の死の迷路のようでした。また稜堡の正面に三日月堡や掩郭を置き、防御力を高めました。榴弾による瞰射で稜堡が意味を成さなくなるまで、この方式は城塞の主流であり続けました。 FALSE
building_description_texts_long_description_star_fort_earthworks_indian \n\n現在のヨーロッパの標準からすると、この要塞は前時代の遺物のように見えます。しかし、その防御力を軽視することは非常に愚かしいことです。厚く高い城壁の背後にある土塁は防御者に余裕ある空間を与えるだけでなく、敵の大砲の威力を弱め、砲弾や弾丸の影響を吸収します。この防御を破ろうとする攻撃者は長い包囲と流血の覚悟ができていなければならないでしょう。\n\n歴史的には、これまで造られた最も強力な要塞の多くはオスマントルコとムガル帝国が築いたものでした。要求された技術の質はとても高く、目を惹くその豪華な装飾はまるで宮殿のようでした。アーグラの「赤い砦」は、インド、ペルシア、イスラムの各様式を融合させたムガル建築の優れた見本で、今日でも見た者の印象に強く残ります。ある時期にはその内側に3,000人もの人間が住んでおり、それ以上の人数をも十分に攻撃から守る防衛力を備えていました。 FALSE
building_description_texts_long_description_star_fort_european \n\n中世において、城塞は堅固さを得るため、そして圧倒的な力の象徴として高い壁を築いていました。その目的の一つは単に弱い者を脅すことにあったのです。しかし大砲の出現からこうした城壁は役に立たないものとなりました。付帯設備は半地下式になり、城壁は砲弾を弾くことを狙ってより厚く、また傾斜されて築かれるようになり、その背後を土の斜堤により保護されました。星形要塞の設計は、突き出た稜堡により攻撃者への側面砲火を可能にする射界を形成することを目的にしています。敵は防壁に辿り着く前に壊滅的なまでの砲火を浴びることになります。稜堡の数は次第に増え、「死角」がどの面においても現れないように進化していきました。\n\n歴史的には、星形要塞の最も著名な設計者はフランスの軍人であり技術者であったヴォーバン元師(1633〜1707)でした。 彼の設計した要塞は100を越え、ナポレオンの時代になってもなお堅牢を誇っていました。第一次大戦で有名な戦場になったヴェルダンも彼の手になる要塞都市でした。 FALSE
building_description_texts_long_description_star_fort_indian \n\n厚く高い壁、印象的な塔、多くの発砲場所を備えたこの砦は、いかなる攻撃者をも怯えさせます。こうした砦の包囲やカノン砲の砲撃による壁の破壊、そして組織的な攻撃を行なうのは大いに時間と労力を要します。防御側にとっては、攻撃隊の意志がくじけるのを待てばよかったのです。\n\nヨーロッパ以外の土地では、ヴォーバンその他の人々による要塞建築理論は、ヨーロッパ強国の陸軍がやってくるまで真の意味で定着しませんでした。従来の設計による砦も十分に目的を果たすものだったので、引き続き用いられていました。これらの砦は地元の反乱勢力を威嚇し、そして反乱勢力は大した包囲戦用の砲兵隊を持ちませんでした。したがって、勇敢または幸運な司令官でなくてはうまく攻撃をしかけられず、旧式の設計は十分に機能していたのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_steam_drydock_european \n\n運河および排水坑周りで使用されるビームエンジンは、乾ドックの効率的な排水を可能にします。このエンジンの動力源として蒸気を用いることは明らかな進歩ですが、蒸気機関が造船所で使用されるようになると、その用途は周囲の海水の汲み出しからさらに大きく拡大しました。蒸気エンジンは大型製材ノコや旋盤や角材製造機を動かす際や、さらに波止場のクレーンの揚力源として用いることができます。造船の主要材料が木材であるため新たに火事の危険性が増したことは確かですが、効率は目覚ましく向上しました。\n\n18世紀には英国海軍の造船所は世界最大の産業機構であり、マストから釘に至るまであらゆる軍艦部品を製造することができました。ケント州チャタムの縄製造場ではアンカーロープを製造していましたが、この工場は建設当時ヨーロッパ最長のレンガ建築でした。この工場では今も船舶用の高品質ロープを生産しています。 FALSE
building_description_texts_long_description_steam-pumped_gold_mine_european \n\n掘削すれば必ず地下水が湧き出しますが、この水は作業にも人命にも重大な危険をもたらします。これを揚水するか排水すれば、鉱夫がより深い、より豊かな鉱床にたどり着けることが出来ます。固定された蒸気式のビームエンジンは深い縦坑を掘るために十分な量の水を排水することが出来ます。これにより鉄が手に入りやすくなり、陸上部隊の雇用もより安価になります。しかし、この機械は下層階級には歓迎されません。彼らは機械が自分たちの仕事を奪うことを恐れているのです。\n\n歴史的には、鉱山での実用的な蒸気ポンプは1710年頃にトーマス・ニューコメンが錫鉱山で真空減圧式機関を使ったのが最初でした。彼の設計には若干の問題があり、熱効率は相当悪いものでした。しかし供給が簡単な石炭で動くという利点があり、広く使用されることになりました。その後より効率的なジェームズ・ワットの新方式の機関が発明され、蒸気機関の基本となったのです。ワットは仕事の上でもマシュー・ボールトンというよきパートナーを得ました。ボールトンは抜け目ない経営管理者としての腕前を発揮し、蒸気機関の特許を広げるよう英国議会をも説得し、彼らは非常な成功者として知られるようになりました。 FALSE
building_description_texts_long_description_stockade_european \n\nこの防御柵は地面に垂直に打ち込まれた丸太の上端を尖らせた、荒削りながら分厚い柵です。適切な防衛が行なわれれば、防御柵はたいていの攻撃軍を退けることができます。そのため土を盛って作られた足場が通常その内側に設けられています。この盛り土には砲弾に対してもある程度の緩衝になるという利点もありますが、防御柵がカノン砲隊による激しい攻撃に耐えることは期待できません。\n\n歴史的には、こうした防御柵はアメリカのフロンティアでよく用いられており、軽兵隊や地元の市民兵で構成される派遣部隊用の偵察基地として用いられました。北米においては、粗野な防御柵とその上方にはためくヨーロッパの国の旗が、「文明化された」領地にたどり着いたことを示す唯一のしるしでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_stockade_tribal \n\n防御柵は様々な用途に使用できますが、必要な場合は早急に設置・解体できるという取り扱いの簡易さが最大の利点です。\n\n防御柵は森林地を伐採したエリアに作られることが多く、その場所で切り倒した木を用いて構築されます。柵は防御されるエリアの周りの溝に配置され、それから丸太の先を削って鋭くし、敵に備えています。 FALSE
building_description_texts_long_description_tCommerce1_market_european \n\n近代になって、市場の光景、喧騒、臭いは中世とは様変わりを遂げました。流通が劇的に進歩したのに伴い、世界中から品物が流れ込んでくるようになりました。例えばオスマントルコからのコーヒー、英国からの羊毛、アメリカ合衆国からの毛皮、インドからの香辛料などです。この広範囲にわたる交易品は、町の富力とともに地域の産業力を向上させます。\n\nナポレオンは英国民の戦意を低下させるため、英国製品の取引と輸入の全面禁止を目論見ました。彼は経済が英国の力そのものであると思っていたのです。エジプトへの攻撃は、英国の植民地であるインドとの通交の遮断が目的でした。ナポレオンが1806年に大陸封鎖令を発したあと、英国政府は逆にフランスを封じ込めるため海上封鎖を行い、英国海軍に全ての非友好国の艦船を拿捕するように命じました。 FALSE