last-modified: 2018-07-21 (土) 21:05:17 (2098d)[変更箇所]
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building_culture_variants_name_tGuns1_gunsmithegy_european 鉄砲鍛冶 False
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building_culture_variants_name_tGuns1_gunsmithmiddle_east 鉄砲鍛冶 False
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building_culture_variants_name_tSecret1_gentlemens_clubegy_european 会員制クラブ False
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building_culture_variants_name_tSecret3_masonic_lodgeeuropean フリーメーソンのロッジ False
building_culture_variants_name_tSecret3_masonic_lodgemiddle_east Yildiz Yeskilati False
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building_culture_variants_name_tSupply3_supply_depotegy_european 補給基地 False
building_culture_variants_name_tSupply3_supply_depotegy_middle_east 補給基地 False
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building_description_texts_long_description_army_barracks_european \n\n軍隊にはあらゆる事務作業が発生するため、事務官がこれをすべて整理します。部隊が命令と補給品を適時に受け取れるように、しかも不心得者の供給業者が大金を盗むことのないように、万全を期する必要があるのです。司令部の幕僚はまた、海軍との協力による輸送の手配、将校とその階級の名簿の記入、お偉方に印象づけるための観兵式の組織、さらに必要があれば社会的権力を与える手助けもします。\n\n歴史的には、18世紀のヨーロッパの陸軍は場当たり的に組織されていました。通常、存在する中で最大の常設の編制は連隊であり、危機が迫った時に、名のある将軍の指揮下に陸軍が組織されました。各連隊について大佐らに指図するという中央指揮権の概念は強い反対に遭うことも多く、オスマン帝国やムガル帝国の方が理論上は組織力に優れており、軍団や師団など、さらに大きな常設の編制を行なっていました。 FALSE
building_description_texts_long_description_army_board_european \n\n兵士には命令を送ってくる官僚のために割く時間などありません。しかし、連隊よりも上位の組織には、補給品の購入・配布、輸送の組織化、将校の昇進名簿の記入、将軍への命令の伝達などを行なう必要があります。こうした仕事には事務官が必要であり、金と、金を使える権力がきわめて重要になります。政府の事務官は皆、この両方にしがみつくことに執心しています。\n\n歴史的には、18世紀に陸軍を運営した政府の部署は、決して国防省でも、将軍のスタッフに近いものでもありませんでした。中央の戦争計画機能などはないに等しく、将軍が当局への対応をひどく嫌がり、一切を自ら管理しようとすることも多かったのです。ヨーロッパでは、陸軍組織が支払いと食料について扱い、支払いの目的である連隊の召集を大佐たちが本当に行なうようにすることに、しばしば時間を費やしました。この点ではるかに組織化されていたオスマン帝国では、陸軍は専門集団としての身分にあり、召集された部隊にはやや時代遅れのものもありましたが、全国規模で召集が行なわれていたのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_army_staff_college_european \n\n戦術によって戦闘に勝利する場合もありますが、戦争の勝利を決めるのは、情報、戦略、そして何よりも補給物資でした。参謀大学校では、戦闘継続にあたり事細かに対処できるスキルを身につけた将校を育成します。将校たちは、戦略の理解のほか、軍用描画、調査、軍法、真の紳士としての振る舞い、馬術、武器の扱いを教えられ、また人格形成の指導も受けます。こうして輩出されるのは、どんな状況でも将軍の助けとなる人物でした。\n\n歴史的には、例えば英国人は生来、陸軍を暴君の道具とみなして信頼しませんでしたが、これは専門家集団として水準を高めることが優先されなかったからかもしれません。王立陸軍大学では、学生たちは自ら学資を出さなければなりませんでした。このことは、「ふさわしい」社会階級出身の志願者のみが学校に通えるようにするという点では当然でした。必要な軍事スキルを兵士たちに与えることに、これほど疑い深い国は他になかったのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_artillery_park_european \n\n暴徒が使うのはせいぜい小火器ですが、大砲を使えるのは軍隊だけです。各国の政府は重砲を国力の尺度と考え、また国家の占有にしようとしました。大砲が不足すれば軍事力は著しく制限され、小競り合い程度の戦闘しか出来なくなります。いったん鋳造されると、砲身は数十年間は保管できました。必要な時に砲身を砲架に取りつけ、弾薬と前車を見つければ用意は整います。砲架を替えて砲身を設置すればカノン砲に作り直すこともできました。\n\n城塞で使用されたカノン砲は、野戦での大砲とは異なる仕様で設置されました。砲兵工廠は常に火事の危険にさらされ、爆発の恐れがありましたが、湿気の多い状態も同様に火薬の在庫品を台無しにしました。だめになった火薬を乾燥して粉にするのは、非常に神経を使う仕事でした。 FALSE
building_description_texts_long_description_barracks_european \n\n兵舎は、軍が国を守り、治安を保つために存在することを示す、煉瓦と石でできた布告です。兵舎は通常演習場の周囲に建てられ、市街からは遠く離れた注意深く隔離された軍人の世界です。兵舎の壁は無表情で攻撃に屈することがなく、外部の世界を威嚇するような顔をしています。酒と女という誘惑の組み合わせから軍隊を遠ざけることは重要です。\n\n歴史的には、ヨーロッパにおける兵舎の建築様式は、古代ギリシア・ローマ世界への憧れを反映しているようでした。軍用施設の設計の統一化は古代ローマ軍の様々な業績の一つですが、18世紀の陸軍についても同様に統一が始まっていました。各国政府はそのために優秀な建築家も雇いました。例えば、英国陸軍のため、ニコラス・ホークスムアはバーウィック・アポン・ツイードに駐屯部隊用の兵舎を建設しました。ホークスムアは後世に名前が残るという点ではクリストファー・レンに及びませんが、才能ではほぼ互角であり、ロンドン大火で消失したものの代わりに壮麗な教会を数多く設計しました。 FALSE
building_description_texts_long_description_barracks_middle_east \n\nイェニチェリは、トルコ語で「新しい兵士」を意味し、最も早い時期に組織化された正規軍です。オスマン帝国の非イスラム教徒から少年兵として徴兵され、教化されることによって、一流の兵士と絶対的な忠誠を誓う官僚が生まれました。イェニチェリの戦勝と有り余る熱意は誇り高くも血に染まった長い伝統であり、厳格な訓練制度の結果でした。この「戦士の掟」の伝統は、イェニチェリ兵舎の禁欲的な建築様式に影響を与えました。故郷を失い、家族との絆も断たれたイェニチェリは、自分たちの階層ではない者に共感する必要などなかったため、帝国を防衛すると共に「帝国の執行者」にもなりました。\n\n歴史的には、イェニチェリは上級戦士のみの役割にとどまっていたわけではありません。国の官僚制度のあらゆる側面にその勢力範囲を拡大し、軍務のほか、様々な交易や仕事を行ない、禁欲主義とはとてもいえない生活を送ることもよくありました。またイェニチェリは考え方が保守的になり、政治、軍隊、社会のどんな改革にとっても、障害そのものとなっていました。 FALSE
building_description_texts_long_description_cannon_foundry_european \n\n初期のカノン砲の鋳造は工業というよりも芸術で、同じものは二つとありませんでした。これは鋳造の限界、使用する鉄や青銅の性質、および製造工程の結果です。6ポンド砲の多くはほぼ正しい直径ですが、まったく同一のものは存在しませんでした。カノン砲が爆発して砲兵が命を落とすことなく、敵のいる大体の方角へ砲弾を投げつけることができればそれで十分だったのです。大砲鋳造場では砲弾を製造するものの、火薬は扱いませんでした。不意に生じる火花とそれが引き起こす大惨事のリスクがあるので、鋳造工房の近辺で火薬を扱おうとするのは錯乱した狂人ぐらいでしょう。\n\nどの鋳造作業でも大砲の製造は危険で、鋳型の砂が少しでも湿っていれば蒸気爆発が起きる可能性があります。周りにいる者は、灼熱の金属と粉々になった型のために死ぬか手足を失うことになるでしょう。1716年、ムーアフィールズにある英国の鋳造工房で、金属が湿った型に注ぎ込まれたために爆発が起き、多くの人々が死傷しました。怪我人の中には武器検査主任になったアームストロング中佐もいました。この鋳造工房そのものも完全に破壊されてしまったのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_college_european \n\n大学教育には金がかかり、学資がない者に向けた慈善金や奨学金もわずかです。大学へ行くのは特権階級の者であり、必要なのは知性よりも金か支援者でした。学生は先進的な科学や哲学を教えられるにもかかわらず、大学の教師たちは保守的な思想を持っている者がほとんどでした。彼らの多くが社会というはしごの一番上の段の出身で、体制の変化には興味がなかったのです。\n\n歴史的には、「若き紳士たち」の教育において、大学に通うことはおそらく最も退屈な要素でした。もっとも、実際に必要な勉強はそれほど厳しいものではなく、18世紀には「ヨーロッパ大陸巡遊旅行」が流行するようになり、裕福な家庭の子弟はイタリアを見て回り(ギリシアはオスマン帝国の手中にありました)、古代遺跡やルネサンス期の偉大な作品の数々をじっくりと鑑賞しました。その過程で、古典時代の彫像や遺物、巨匠の絵画、その他気に入った品に大金を費やしました。これほどには洗練されていないものの、資金は十分にある者たちが地方の酒場や売春宿でエキゾチックな「教育」を求めたのは、まったく無理からぬことでしょう! FALSE
building_description_texts_long_description_college_ottoman \n\n民間事業、国家行政のいずれにおいても高等教育は国の基礎的な力となります。大学は過激な思想の温床となることを社会から期待されているわけではなく、堂々たる姿勢で最高の地位で活躍する有能かつ洗練された人々を育成するのが役割です。卒業生にとっては、大学での成績が芳しくないものであっても、個人的なつながりは非常に役に立つものとなります。\n\n歴史的には、オスマン帝国ではいつでも有能な行政官が不足しており、これは、よく訓練され教育されたイェニチェリに帝国の役人としての役割を任せなければならなかった理由の1つでした。しかし、イェニチェリは文民の公務員としての義務よりも、役得を求めることに熱心であることが多かったようです。 FALSE
building_description_texts_long_description_commercial_basin_european \n\n適宜に取引が出来ない商人を助けるため代理人がチャーター船と貨物を取り仕切ることにより、商業港は交易の新しい機会を開くことができます。これは町の富力などを大幅に改善し、しかも全ての地域、そして以前は開くことが出来なかった幾つかの新しい海上交易路を開きます。これは商業的な進歩ですが、しかし問題もあります。下層階級が厳しい労働条件に憤慨するようになり、彼らの幸福度が影響を受けます。\n\n英国におけるブリストルとリバプール、そしてアフリカを加えた悪名高い三角交易は、驚くほど有益なビジネスでした。 加工品、雑貨、銃がアフリカに送られ、そこで原住民の酋長に売られました。そこで奴隷が集められ、悲惨な状況の中で大西洋全域に運ばれていったのです。輸送中に命を落とす奴隷も多い中、生きている者はアメリカやカリブ諸島で売られ、そこで砂糖とラム酒を載せ、英国に戻っていったのです。相当な利益が各交易地で上げられ、取引の非道徳さは結局利益に勝つことは出来ませんでした。1807年に奴隷売買の禁止が英国において制定されましたが、既にいる奴隷が解放されるのは1833年まで待たなければなりませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_commercial_port_european \n\n商品を国内市場に輸送することは、交易から富を得るための手段の一つに過ぎません。価値の高い商品を外国の新しい市場に輸出することでさらに多くの富を築くことができます。また入荷する貨物を倉庫に蓄積し、望ましい価格が実現したタイミングで売りさばくことができれば、利益は大きくなります。\n\n多くの海洋国家(特に英国とオランダ)には、商品の港への輸送を自国民に独占させる法律がありました。たとえば、ロンドン港に到着するものは何であれ、英国の貨物船で運び込まれることになっていました。このような交易における保護主義は植民地にも適用され、少なくともある戦争の間接的原因になりました。「ジェンキンスの耳の戦争」(1739-48)と呼ばれるスペインと英国の間の戦争は、ロバート・ジェンキンスがスペイン領で交易に従事していたところを拿捕された際に、スペイン人に耳を切り落とされたとされる話が契機になりました。蛇足ながら、この戦争でヴァーノン提督がパナマのプエルト・ベロを占領したことを祝賀して、『God Save the King』が史上初めて英国の国歌として演奏されました。 FALSE
building_description_texts_long_description_conservatorium_european \n\n主に教養ある上層階級の聴衆の耳を楽しませることが目的でしたが、コンセルヴァトワールで施される教育は実践的な職業教育でもあります。授業料を払うのは音楽家として生計を立てる志のある者たちであって、悪くても金持ちのパトロンがついたオーケストラに職を得ることができ、腕がよければ著名な作曲家として作曲の依頼やパトロン、活動する国まで自分で選ぶことができました。コンセルヴァトワールは顧客である学生たちの望む教育を提供せねばならず、プロフェッショナルとして、あるいは二流の紳士階級としても通用する洗練された音楽家を育成します。\n\n歴史的には、こうした学校の多くは王立音楽アカデミーや大聖堂の聖歌隊学校として出発しました。音楽はすべて生演奏であり、あらゆる国家行事や宗教行事において斬新で刺激的な作品が必要とされたので、非常に数多くの音楽家が求められました。モーツァルトやヘンデルのような偉大な作曲家は著名人となり、各国の王室は彼らを招聘しようと競い合いました。 FALSE
building_description_texts_long_description_conservatorium_middle_east \n\n美しい文字を書く技術が重要なのは、それによってコーランの啓示を保存し伝達することができるからです。書家の作品は、書かれた文字の意味だけでなく、文字の美しさ自体のために尊重され収集の対象となります。さまざまなスタイル、形式の文字を身につけることは一生をかけた仕事ですが、豊かな報酬をもたらします。\n\n弟子は「イカゼット」と呼ばれる免状をもらえるまでは作品に署名することは許されず、免状は数名の師範の目前で審査用の作品を書くことで与えられます。そのレベルは非常に高いものでしたが、ひとたび書家として認められれば、その作品は顧客に大切にされます。書法はまた(幾何学模様のアラベスク芸術と並んで)イスラム装飾の基礎をなすものでもあり、言葉の組み合わせでイメージを生み出す表象的スタイルを持ちます。こうした「カリグラム」(注:内容にふさわしい形状に言葉を並べる芸術)は複雑であり大変美しい芸術作品です。 FALSE
building_description_texts_long_description_dockyard_european \n\n造船所には付帯する設備(例えばロープ製造所、鍛冶場と炉、製材所など)を持ち、職人の中には熟練した大工はもちろん製帆、製樽、船具商などを含みます。また木材を乾燥させるための小屋もあります。船材に使う木材は完全に乾燥させる必要があり、内部の水分を飛ばすためには何ヶ月も、あるいは何年もかかる場合があります。\n\n歴史的には、強襲などの敵の工作により造船所を失うことは重大な問題になることがありました。停泊してある船への損害は別にして、貯蔵してある木材を喪失することは大きな痛手になりました。金があれば作業所は再建できますが、船材はそう簡単に替わりがあるものではなかったのです。木材を船材として使えるようにするには何年もかかる場合があり、船の修繕も難しくなることを意味します。有能な海軍士官ならば、敵に損害を与えるために艦船を攻撃したり略奪するよりは造船所と備蓄資材を焼失させるほうを選ぶでしょう! FALSE
building_description_texts_long_description_drill_school_european \n\n戦場においては精確な行動が要求される時代にあって、教練はどの国の軍隊でも必要不可欠な部分です。弾丸の充填から発砲までの動きを常に繰り返し練習することはそれ自体有益ですが、もっと重要なことは上官に対する無条件の従順さを養うという点です。これは文字通り兵士全員の体に叩き込まれます。教練には陸軍にとってこのほかにも利点があります。観兵式場で兵士を疲れさせていれば、ケンカを始めた酒場を探しに行く暇もなくなるからです。\n\n英国では、18世紀の教練の一形態が現在まで式典での行進の形で受け継がれています。これは「トゥルーピング・ザ・カラー」と呼ばれる行進で、国王の誕生日にロンドンの近衛騎兵団本部で行なわれます。元来、この行進は祝賀行事ではなくて実際の訓練でした。兵士たちは所属する隊の「色」すなわち旗がどのようなものであるかを知っておく必要があり、戦場で兵士たちは命令に従って参集に応じ、これらの「色」を防衛することができるようになっていなければなりませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_drydock_european \n\n船は満潮のときドックに入れられ、門が閉じられたあとポンプで水が汲み出されます。盤木で船底が固定されたのち完全に水は排出され、それから作業者が船体に取り掛かることになります。ポンプで排出する水の量を最小にするため、潮汐のタイミングを合わせなければなりませんが、これによって作業が干満の時間に左右されることになります。多くの労働現場の条件は厳しいものですが、乾ドックでの作業はより一層過酷です。\n\nここでは船の修理だけでなく建造も行います。作業が終わった後は水を引きこみ、再び海に入水させるのです。船のサイズは、石やプロックで出来たドックの泊渠の大きさによって制限されました。このような仕事は熟練の船大工と造船技師によって監督され、しばしば国営のドックさえ彼らの個人的な作業所とみなされる場合がありました。彼らには相当な歩合が払われ、紹介料と単純な収賄金と引きかえに、当局が彼らの友人や仲間とドックの下請契約をすることも珍しくありませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_engineer_school_european \n\nこの学校では、測量術、爆発物の扱い、兵器の構造、建築、包囲戦の戦い方、作図等々、技術将校が将来必要とするあらゆる専門的技能を学びます。通常の戦術も教授されますが、技術将校は軍を指揮したり命令したりする役割を期待されているわけではありません。彼らの任務は、大砲の配置を決めたり、敵要塞の防壁の弱点について助言したりすることです。工兵には砲兵隊の専門家と同様に長い歴史があり、中世からルネサンス期にかけての王室軍においては終身勤務でした。\n\n包囲戦では城壁を破壊するための専門家が必要となり、フランスのヴォーバン元帥(1633-1707)と彼の壮大な要塞がきっかけとなって、18世紀には軍隊の技術者が防御法を考案し、敵の防御を突破する必要性は増えました。ヴォーバンとその後継者たちは巧妙で複数の層からなる防御法を発展させましたが、それには熟練の設計術と建築術が必要でした。技術将校が高度な教育を受けた集団となる一方、塹壕掘りのような汚い力仕事は平民出の工兵たちに任されました。 FALSE
building_description_texts_long_description_fFort1_wooden_artillery_fort_european \n\n大砲砦は銃眼のある堅固な壁と胸壁を持ち、間隙に設置された大砲が攻撃者に火を吐き続けます。連続した火砲の射撃は、それが小口径のものであるにせよ構造物には相当な衝撃を与えます。したがって大砲砦は支柱に多くの木材と必要な土塁を築くための多大な労力を必要とします。これらは攻撃者による砲撃に耐えうることのできる構造物を造り上げますが、たとえ土製の防塁に支持されているとはいえ、木造では長時間は砲撃に持ち堪えることはできません。\n\n木造の大砲砦からは周囲を見渡すことができ、侵入者に対する重要かつ戦略的な障害になります。その堂々とした防壁は、建設者が自分たちの土地を守るという意志を示しているのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_fFort2_western_artillery_fort_european \n\n大砲砦は銃眼のある堅固な壁と胸壁を持ち、間隙に設置された大砲が攻撃者に火を吐き続けます。どのような攻撃者にとっても、銃弾や散弾が込められ迎撃の用意がされた砦に接近することは死の罠に入り込むのと同じことです。砦は、繰り返される砲撃による衝撃、そして自らの大砲の反動による衝撃に耐えうる構造でなくてはなりません。9ポンド砲のような小口径の大砲でも、それが与える衝撃は相当なものです。\n\nもう一つの砦への危険は、もちろん火災によるものです。砦そのものは焼損しなかったにしても、火薬を保管している倉庫に火が回れば大爆発を起こします。火薬庫は非常に危険なので、災害を避けるために何重もの注意を必要とされます。1812年戦争のとき、ヨーク砦でイギリス軍は敵に砦を渡すまいと火薬庫に火をつけ、その結果突入してきたアメリカ軍を数百人も殺傷しました。 FALSE
building_description_texts_long_description_fFort3_star_fort_european \n\n星形要塞の設計は、突き出た稜堡により攻撃者への側面砲火を可能にする射界を形成することを目的にしています。理論上、敵は防壁に辿り着く前に壊滅的なまでの砲火を浴びることになります。稜堡の数は次第に増え、「死角」がどの面においても現れないように進化していきました。要塞そのものが巨大な殺戮領域だといえます。\n\n中世において、城塞は堅固さを得るため、そして圧倒的な力の象徴として高い壁を築いていました。その目的の一つは単に弱い者を脅すことにあったのです。しかし大砲の出現からこうした城壁は役に立たないものとなりました。付帯設備は半地下式になり、城壁は砲弾を弾くことを狙ってより厚く、また傾斜されて築かれるようになり、その背後を土の斜堤により保護されました。 FALSE
building_description_texts_long_description_fFort3_star_fort_middle_east \n\n現在のヨーロッパの標準からすると、この要塞は前時代の遺物のように見えます。しかし、その防御力を軽視することは非常に愚かしいことです。厚く高い城壁の背後にある土塁は防御者に余裕ある空間を与えるだけでなく、敵の大砲の威力を弱め、砲弾や弾丸の影響を吸収します。この防御を破ろうとする攻撃者は長い包囲と流血の覚悟ができていなければならないでしょう。\n\n歴史的には、これまで造られた最も強力な要塞の多くはオスマントルコとムガル帝国が築いたものでした。要求された技術の質はとても高く、目を惹くその豪華な装飾はまるで宮殿のようでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_gold_mine_european \n\n大部分の鉱夫は蝋燭もしくはランプだけの明かりで、地獄のような環境で働いています。鉱山の中には爆発性ガスまたはメタンが空気に含まれており、裸火から引火する爆発の絶え間ない可能性を生じています。また、鉱山の副産物であるヒ素や石塵、有毒物は死の危険をいっそう増しています。\n\n歴史的には、鉱業事故はこの時代珍しいものではありませんでした。鉱夫への安全対策が講じられることはなく、かえって坑道への支柱に使う木材を安全のため余分に使うという名目で、費用を鉱山所有者が鉱夫に請求することすらありました。鉱山で働くのは男ばかりでなく、女性や子供も含まれました。最低の賃金で、水や食料を鉱夫に運んで行ったのです。こうした側面は全て金儲けに比べると二の次にされ、採掘は莫大な利益をあげる可能性を秘めた産業となっています。 FALSE
building_description_texts_long_description_gold_mine_tribal \n\n貴重な鉱石の採掘は過酷で危険な作業ですが、得られるものもまた莫大です。遠く離れた土地との交易が盛んな今、この地球から得られる恵みを基に裕福な生活を実現する人もいます。貴金属や貴石は、未加工のままでも取引でき、宝石や武器のような交易品を作るのに用いることもできます。\n\nアメリカ先住民は西暦900年にはすでに採掘を行なっていたと考えられています。この時期のものとされる溝付き斧、大斧、鉄床が発見されており、先住民部族が金属の採掘法だけではなく、加工法も知っていたことが明らかになっています。 FALSE
building_description_texts_long_description_grand_opera_house_european \n\n音楽公演のための印象的なこの施設において観客は新しい娯楽を楽しみ、後援者たちはその嗜好を賞賛します。音楽は万人のもので、全ての人々の幸福度を改善しますが、最高の特別席でそれを楽しめるのは一握りの上流階級だけです。特に多くの重要人物が訪れる大オペラハウスでは、設備への投資は惜しまれることなく注がれます。この評判が高い建物は、その地域の町の富力を著しく改善します。\n\n18世紀の多くの統治者は芸術、特にオペラの後援を好みました。優れた作曲家(モーツァルト、ヘンデル。スカラッティなど)を輩出したことにより、音楽は大いに進歩しました。作曲家たちは賞賛を、また後援者を得るため楽曲を大貴族へ持ち寄ったのです。中でも、「音楽王」と呼ばれたオーストリア皇帝ヨーゼフ2世は、ヨーロッパで優れた音楽家たちの才能が花開いた時期に音楽を愛した幸運な君主でした。彼はオーストリア国内でゲルマン文化を奨励すべく、歌劇を愛国心昂揚の手段として用いたのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_grand_opera_house_middle_east \n\nチューリップはアナトリアが原産地の花で、オスマン帝国では長く珍重されてきました。伝統的な庭園には多くそれが植えられ、素晴らしい形と色を見せていました。庭園の配置は宗教的な楽園を再現することを目的とします。完全な花はその重要な部分で、全ての階層の人間に幸福と平和をもたらします。\n\nオスマン帝国からやってきたチューリップはヨーロッパにおいても栽培され、チューリップ愛好家には高値で取引されていました。17世紀の初頭にオランダで行われたチューリップ取引に投機的な要素が加わり、一つの球根に途方もない値段がつくようになりました。投機が過熱した挙句チューリップ相場は暴落し、含み益は泡と消え、数多くの支払えない債務を背負った者が残されました。それよりは遥かに分別のあるオスマン帝国の人々はこの花をアッラーからの贈り物と考え、その美しさを愛でて楽しんでいました。 FALSE
building_description_texts_long_description_great_arsenal_european \n\n新型カノン砲の開発は費用もかかり、リスクを伴います。大砲の政府による管理と生産は賢明な政策です。大砲のない反乱軍は大した脅威にはなりませんが、強力な大砲があれば反乱が革命へと発展する可能性もあるのです。陸軍(さらに海軍も)が効果的に活動するには大砲が必要です。戦闘において発揮される力は、主に砲兵隊の規模と多様性から測ることができます。\n\n歴史的には、多くの国家の武器貯蔵庫は平時のカノン砲や弾丸や火薬の保管に用いられました。陸軍による国内の平和維持活動に砲兵隊が必要なことはめったになく、カノン砲の砲身は、鋳造後数十年保管した後でも砲架に取りつけ戦闘に使用することが可能でした。火薬も何年も放置されていることがあり、その場合は当然問題が生じていました。武器保管の維持費も問題となっており、兵器部門長官と友人たちが自腹を切るはめになることも頻繁にありました。 FALSE
building_description_texts_long_description_great_museum_european \n\nここに収められた興味をそそる収蔵品は、歴代の統治者が気まぐれに収集した骨董品、外国人からの贈り物、そして戦勝のさいに持ち帰った若干の戦利品です。また収集にはあらゆる分野において国家の力を誇示するという別の目的もあります。複雑極まりない機械、最高の職人の工芸、そして世界最大級の大砲などです。これは国家の優越感を満たし、すべての人々の幸福度と町の富を改善します。\n\n歴史的には、個人的な博物館やその展示は『驚異の部屋』から発展し、いくつかは国有財産、もしくは王室の財産となりました。世界的に有名な大英博物館がその典型で、もともとは古美術収集家のハンス・スローン卿の収集がその起源でした。彼は死後自分の収蔵品が一般に広く供覧されることを望み、英国政府がそのための博物館を作ったのです。その後も個人の収集家からの寄贈が続き、大英博物館の収蔵品は膨大な数に上っています。 FALSE
building_description_texts_long_description_gunnery_school_european \n\n砲兵士官は自らを一般の将校とは「一線を画した存在」だと考えていますが、彼らはその仕事を何年もかけて追究し技術を身につけた専門家なのです。誤った使い方をすれば、カノン砲は敵だけでなく使用者にとっても極めて危険となるため、砲兵士官がその取り扱いについて十分な知識を持つことが求められます。陸軍将校は将校任命辞令を購入してその職を得ることもありましたが、砲兵士官は年功序列と実績に基づいて昇進します。砲兵は見かけだけ勇猛なふりをして突っ立っているわけにはいかず、軍事に関わる測量や図面の作成、数学、弾道学、ある種の軍事工学を理解し、技術的な問題を把握する能力が求められます。そのため、「紳士」の将校たちと、「軍事業務」に従事する砲兵士官との間に緊張が生じる場合もあります。\n\n歴史的には、多くの砲兵隊と砲術学校は長い歴史を持ち、その起源は兵器部門または砲術の専門家が王室の一部に所属する時代にさかのぼります。砲兵技術を学んだ人物として最も有名なのはもちろんナポレオン・ボナパルトです。地位の低い貴族の出である彼がその技術に興味を抱いたことは驚くべきことだと見なされていました。 FALSE
building_description_texts_long_description_industrial_gold_mining_complex_european \n\n鉱山の所有者が投資に対する最大の利益を手にするには、鉱石から利用可能な材料をできるだけ大量に抽出しなくてはなりません。つまり産業的規模で多くの処理を実行しなくてはならず、鉱石の洗浄、無価値な石を除くための手作業による分類、粉砕、そして最後に融解と製錬が行なわれました。\n\nこれらの作業全てで多くの人手が必要で、男たちが地下で採掘を行なう一方、女性と子どもがそうした作業にあたっていました。鉱山の作業現場に加え、処理場での死亡事故が後を絶たず、また岩石を溶解することから有毒な煙が排出され、鉱毒が周囲の土壌と水をを汚染しました。そして美しい田園は処理物の堆積地と汚染された池に変わってしまいました。しかし、そこから利益が出る限り、これらは大した問題とはされませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_iron_mine_tribal \n\n貴重な鉱石の採掘は過酷で危険な作業ですが、得られるものもまた莫大です。遠く離れた土地との交易が盛んな今、この地球から得られる恵みを基に裕福な生活を実現する人もいます。貴金属や貴石は、未加工のままでも取引でき、宝石や武器のような交易品を作るのに用いることもできます。\n\nアメリカ先住民は西暦900年にはすでに採掘を行なっていたと考えられています。この時期のものとされる溝付き斧、大斧、鉄床が発見されており、先住民部族が金属の採掘法だけではなく、加工法も知っていたことが明らかになっています。 FALSE
building_description_texts_long_description_madrassa \n\nこれらの神学校の多くはモスクに付属していますが、宗教教育だけを行なうのではありません。希望するものはクルアーンを学ぶことができ、全て暗記したら、「ハーフィズ」という名誉ある称号を与えられます。より広範な科目を学ぶ生徒もおり、歴史、論理学、イスラム法(シャリーア)、預言者ムハンマドの言行録であるハディース、そしてクルアーンの正確な解釈等の科目があります。学習を終えた者は、学者ならびにイマームの地位を得て、より広範なコミュニティの中で他のイスラム教徒に法と宗教の解釈を伝える指導者となります。\n\n歴史的には、一部のイスラム神学校ではさらに広範な科目の選択が可能でした。例えばアラビア文学、英語、フランス語、オランダ語、その他の交易に有用な言語、さらに科学、数学、世界史等を学ぶことができました。教育の結果生まれた学者は知的に成熟した人物とされ、その後の研究に相応しい力を身に着けていました。 FALSE
building_description_texts_long_description_magistrate_european \n\n法と治安、税の執行は政府の基本となります。行政官は一人の人間に体現される政府です。彼の任務は税を徴収し、治安を守り、軍の徴兵を監督します。彼は管理者、収税吏、取締人、慈善事業の推進者、徴兵人です。\n\n共和国でさえ行政官は通常上層階級から選ばれるもので、富裕層は彼らの富が揺ぎ無いと確信する必要があるのです。また行政官が、徴兵して部隊を編成する権限と、囚人を罰として軍隊に送る権限を与えられていることもありました。したがって、騒乱があった場合は行政官が暴徒に対する防衛線を真っ先に設けることになります。 FALSE
building_description_texts_long_description_magistrate_tribal \n\n一族の長老は、人間界と精霊界の2つの世界の間を行き来できる存在だと考えられています。精霊界からの知識を持ち帰る能力が長老を特別な存在たらしめ、その年齢を超えた英知を彼に与えています。\n\n長老の多くは、長年霊性を追求し多くの事柄を学んだ人物です。いかに些細な事柄であれ全ての決定は、実行に移す前に長老たちの評議会での審議を経なくてはなりません。評議会の承認が必要な結婚から、その年の狩猟の祝福まで、ことの大小を問わずあらゆることがこの場で検討されます。 FALSE
building_description_texts_long_description_military_academy_european \n\n多くの国では、軍の上部組織に関わるような人材はほとんど上流階層の子弟に限られていました。それは国家の運営に責任ある人々を置くためですが、同時に能力の面でデメリットもあります。貴族に必ずしもその種の才能があるとは限らないからです。陸軍士官学校は才能を持つ人々を受け入れて、軍隊の理論と実践を教えます。\n\nフランスにおいては有望な士官候補生を育成するために1751年に王立陸軍士官学校が創設され、ナポレオンもそこで学びました。ナポレオンは1802年にフォンテーヌ・ブローに新しい士官学校を開設し、多数の青年士官を養成しました。他方イギリスにおいては士官学校は軍人の子弟にのみ開かれており、父親の跡を継ぐため軍を志願した若者がほとんどでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_modern_university_european \n\n万物の探求、そしてその結果に関する議論は、言うまでもなく利他主義的な感覚から行なわれるものではありません。知的な業績に対する誇りは研究を行なう上での重要な動機となり、個人としての野心も研究を進める上での役割を果たします。しかしここで重要なのは、大学で生まれる観念や理論や事実は、学問上のエリートたちだけのものではないということです。こうした学問の成果は、芸術家や詩人や音楽家や、さらには博識の門外漢にとっても情報と着想の源となります。大学から生まれた進歩がもたらす実際的な利益は、国のより広範な社会へと浸透し、変化の大小を問わず、民衆の生活を向上させます。\n\n18世紀には優れた大学と、そこに集まった優れた頭脳が国家主義的な誇りの源となりました。アイザック・ニュートンは英国のケンブリッジ大学での研究により、ヨーロッパ中から称賛を浴びました。ゲッティンゲン大学は、ラテン語だけでなくドイツ語でも研究結果やその他標準的な文書を発表し、「ドイツ的なもの」の発展に寄与しました。また同大学は、大胆にも国家や教会に無関係にあらゆる書籍を講師が用いることを認めた点で、独自の存在でした。 FALSE
building_description_texts_long_description_opera_house_european \n\nオペラハウスを華美な会場とするためには惜しみなく金が費やされます。贅を尽くした家具や備品は、多くの大宮殿に匹敵していますが、それはこうした公的空間が聴衆にとっては公演以上に重要であったからです。演劇的工夫と機械的な仕掛けは、音楽自体にも劣らぬ壮大な舞台を演出しますが、エリート階級にとって歌劇場での夜の本当の楽しみは、ゴシップや策謀や陰口なのです。\n\n18世紀にはオペラはイタリア風の「シリアス」なスタイルで上演されていました。この音楽様式が、モーツァルトを含むイタリア以外の国の数々の作曲家にも影響を及ぼしています。筋書きは意図的に単純化されており、悲劇であることが多く、音楽家に出資しているパトロンの好みを満たすよう極めて保守的な傾向にありました。今では廃れてなくなった流行として、カストラートの存在がありました。彼らは声変わりせずソプラノの声を保てるように若い頃に去勢された歌手です。 FALSE
building_description_texts_long_description_opera_house_indian \n\nインドは多くの文化と芸術の発祥地であり、支配者階級はその財力で全てにおいて最高のものを要求し、その代価を支払います。そのため多様な分野で腕のいい熟練職人の需要が高まり、さらに道楽として自分もやってみたいと考える裕福な好事家向けの訓練の需要も高まり、その結果教養あるパトロンが賢明に金を使うことが可能になっています。エロティックな寺院の彫像から、写本の彩飾や、その中間といえるあらゆる技法に至るまで、あらゆる技法を専門的に教える学校が存在しています。\n\n歴史的には、インドで最も精巧な建物や芸術上の成果の一部はムガル帝国時代のもので、この様式はインド=イスラム様式と呼ばれています。イスラム教徒であったムガル帝国の支配階級は、ヒンドゥー教の臣民の技能を高く評価し、豊かで美しい環境を作るのに彼らの技術を大いに活用しました。ラホール城のような場所では、後の支配者たちが優れた建築と芸術の伝統を受け継いでいます。 FALSE
building_description_texts_long_description_opera_house_middle_east \n\n詩歌の形式と隠れた寓意を習得するにはかなりの時間を要し、詩歌には参照されるべき三つの言語から生じた豊かな一連の伝統があります。オスマン帝国の『ディバン』という詩では、ペルシャ詩の形式を用い、借用語を多用します(トルコ語はペルシャの押韻法に合わないのです)。アラビア語の詩歌は実に多様な形式をとりますが、宗教的感性の持ち主が不快にならぬよう、注意深い扱いが必要なものもあります。\n\n詩歌は神を賛美することや、正当のイスラム学の習得から目を逸らさせてしまうこともあります。詩歌学校はこうした細かな点までの全てを教授し、才能のある人物にとってはやりがいのある仕事である宮廷詩人を志望する生徒に基礎知識を伝授するのです。当然ながらパトロンを見つけられるかどうかは生徒次第であり、読み書きの力と美しい文字を書く力は大切な能力です。 FALSE
building_description_texts_long_description_opera_house_tribal \n\n埋葬の習慣は実に様々で、愛する者をあの世に送るには空気が重要だと考える部族もあります。こうした部族では、死者の魂が風に乗ることができるように、木製の足場が作られ、その最上部に死者は置かれます。遺体と一緒に魂を留めておかねばならないと信じる部族もあり、その場合は魂を閉じ込める「魂の家」が建てられました。こうした小型の建物は多様な形式をとりますが、中には体の上に建てられたミニチュアの家のようなものもありました。\n\n埋葬の儀式は常に部族のトーテムと結びついています。例えば、鷲と関わりのある部族は常に足場の上に遺体を置き、トーテムが熊である部族は木に覆われた場所に遺体を埋葬するといった事例が見られます。 FALSE
building_description_texts_long_description_ordnance_board_european \n\n兵器委員会は軍のための設計、開発、大砲の鋳造や部品の保管を担当しています。またここでは陸海軍が使用する火薬の生産も手がけています。大砲は非常に高価で国家の軍事力を象徴するため、兵器委員会は国を動かす重要な一部分です。\n\n歴史的には、攻城兵器や火砲は常に専門家による扱いが必要で、これはただの兵士には勤まらない仕事でした。中世においては兵器長官がこれを担当し、射撃員、測量士、計算員、運搬員、荷馬車の御者など多くの人員を抱えていました。すべての政府機関と同様に、彼らの権限や発言力は時代とともに増していきました。彼らは要塞の管理と、場合によっては国を守るすべての武器の製造をコントロールしました。 FALSE
building_description_texts_long_description_ordnance_factory_european \n\nカノン砲の製造は国家の占有事業であることがほとんどでした。政府以外に大砲を所有する必要がある者はいないからです。大型砲の製造は難しく費用のかさむ仕事であり、その費用が出せる機関も国家だけでした。従って大砲の所有数は国の力を測る尺度であり、生産能力(外国からの購入分ではなく自国での製造分)も同様でした。\n\n歴史的には、大半の兵器工場が王立施設として設立され、各国の国王へのカノン砲の供給源となっていました。しぶとく抵抗する反逆者の城にダメージを与えるにはカノン砲が必要でした。政治体制が変化しても、カノン砲の生産は引き続き国家の監督下に置かれました。掌砲長や兵器長官が王室の一員として、または大臣に近い地位として扱われたことは、大砲が国または王室の名声を示す上で重要な役割を果たした証明です。オスマントルコは大砲類の生産、特に重攻城砲の生産に強い伝統を誇っていました。 FALSE
building_description_texts_long_description_pNavy1_shipyard_european \n\n造船所は町村の規模に相応した小さな工業所で、通常は現地で船を建造するのに必要な職人と小売商人とがいます。これらは関連する作業所(例えばロープ製造所、鍛冶場と炉、製材所など)を持ち、職人の中には熟練した大工はもちろん製帆、製樽、船具商などを含みます。また木材を乾燥させるための小屋もあります。船材に使う木材は完全に乾燥させる必要があり、内部の水分を飛ばすためには何ヶ月も、あるいは何年もかかる場合があります。\n\n歴史的には、強襲などの敵の工作により造船所を失うことは重大な問題になることがありました。停泊してある船への損害は別にして、貯蔵してある木材を喪失することは大きな痛手になりました。金があれば作業所は再建できますが、船材はそう簡単に替わりがあるものではなかったのです。木材を船材として使えるようにするには何年もかかる場合があり、船の修繕も難しくなることを意味します。有能な海軍士官ならば、敵に損害を与えるために艦船を攻撃したり略奪するよりは造船所と備蓄資材を焼失させるほうを選ぶでしょう! FALSE
building_description_texts_long_description_pNavy2_dockyard_european \n\n船は満潮のときドックに入れられ、門が閉じられたあとポンプで水が汲み出されます。盤木で船底が固定されたのち完全に水は排出され、それから作業者が船体に取り掛かることになります。ポンプで排出する水の量を最小にするため、潮汐のタイミングを合わせなければなりませんが、これによって作業が干満の時間に左右されることになります。多くの労働現場の条件は厳しいものですが、乾ドックでの作業はより一層過酷です。\n\nここでは船の修理だけでなく建造も行います。作業が終わった後は水を引きこみ、再び海に入水させるのです。船のサイズは、石やプロックで出来たドックの泊渠の大きさによって制限されました。このような仕事は熟練の船大工と造船技師によって監督され、しばしば国営のドックさえ彼らの個人的な作業所とみなされる場合がありました。彼らには相当な歩合が払われ、紹介料と単純な収賄金と引きかえに、当局が彼らの友人や仲間とドックの下請契約をすることも珍しくありませんでした。 FALSE
building_description_texts_long_description_pNavy3_steam_drydock_european \n\nこれは工業の素晴らしい成果といえます。巨大で強力な艦船を建造するために、蒸気機関と炉の炎の中で立ち働くのです。排水のためにビームエンジンが使われ、他のエンジンは製材や旋盤、ブロック製造やクレーンの動力として使われました。職人がかつて労働した場所で、重機が彼らに代わっているのです。多くの蒸気工業は労働には危険で恐ろしい場所です。 蒸気機関式乾ドックも地域の労働者たちに幸福を感じさせることはありません。\n\n歴史的には、ドックから海水を排出する技術は鉱山において湧水を汲み出すのに使われていたポンプと同じものです。従来のドックに蒸気機関が使用されるようになり、急速に動力化が進行していきました。ナポレオン戦争の時代までに、英国は世界最強の海軍国であるとともに世界最大の造船産業国でもありました。海軍の提督は、彼らが愛する海軍のためにあらゆる先進的な工業技術を取り入れようとしたのです。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_austria_albertina \n\nこの美術館はもともとウィーンの砦跡に建てられたエマヌエル・テレス・ジルヴァ=タロウカ伯爵の宮殿でした。この建設に関しては、伯爵が宮廷建設局長としての立場を利用したと考えられています。この建物はその後、元オランダ総督のザクセン=テシェン公アルベルトの所有物となりました。彼はブリュッセルからウィーンに彼の美術作品と古美術品の一大コレクションを持ちこみ、その収納のために宮殿を拡張したのです。\n\n1776年に、ヴェネチア在住のオーストリア大使、ジャコモ・ドゥラッツォがアルベルト公に約1,000点の美術品を安全に保管してもらうべく寄贈し、コレクションはさらに拡大しました。このコレクションにより宮殿はアルベルティーナ美術館と呼ばれるようになり、1918年のハプスブルク家の支配の終焉後や、第二次世界大戦でのウィーンの空爆後も存続しています。そして今日でもヨーロッパの最大級の美術館の1つです。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_austria_hofburg \n\nホーフブルク宮殿はウィーンでのハプスブルク家の皇帝の住居であり、この建物の一部の歴史は中世にさかのぼのます。この宮殿は単体の建築物ではなく、ハプスブルク家の支配者の必要(敵対関係や好き嫌いは言うまでもなく)の変化を受けて拡大してきた建築の複合体なのです。宮殿内には、礼拝堂、音楽学校、一族の分家のための数多くの小規模な住宅が設けられています。実際に、「皇室の馬小屋」と呼ばれる場所には完ぺきな第二の宮殿がありますが、これは神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント1世と彼の王子マクシミリアンとの不和の結果建てられたものです。二人の関係は実に険悪で、皇帝は息子と同じ屋根の下に住むことを嫌がるほどでした。\n\n資金も十分で、皇帝たちの嗜好も変化したため、数世紀の間にホーフブルク宮殿では広範な再建や改築が行なわれました。それでも宮殿が帝国の力と威光をまざまざと見せつけるものであることに変わりはなく、宮殿は現在オーストリア大統領の公邸として使用されています。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_britain_british_museum \n\n18世紀には、ジェントルマンのコレクターたちが友人やライバルに披露するために「珍品陳列棚」を設けていました。最も注目すべきそして最も名誉ある物を手に入れんとする競争の結果、やがてこの「陳列棚」は、この高価な趣味のために特別に開けられた一室や一続きの間へと拡大していきました。珍品自体の研究も、古物蒐集家の学究的な努力が行なわれる尊敬すべき分野となりますが、こうした蒐集家自身がまるで社交スキルの低い、埃っぽい珍品の寄せ集めのようでもありました。\n\n大英博物館はそうしたコレクションの一つとして設立されましたが、旧王立図書室の蔵書をジョージ2世が寄贈し、それから英国内で出版される全ての書籍が大英博物館の図書室に置かれることになりました。さらなる寄贈品、例えばギャリックの演劇関連図書の寄贈や、抜け目のない購入活動により、古物のコレクションは驚くべき速度で確実に増加しました。サー・ウィリアム・ハミルトン(提督ホレーショ・ネルソン卿の愛人であったエマ・ハミルトンの夫)は、大英博物館に古代ローマ・ギリシア関係のコレクションを売却した際にかなりの収入を得ました。この収入はおそらく彼に妻の不倫の悩みを忘れさせたでしょう。またこの博物館には、探検と征服による略奪品も収蔵されました。キャプテン・クックの南海への探検旅行時に集められた品はしばらく大英博物館に展示されていました。ナポレオンのエジプト遠征が失敗に終わった後にフランスから獲得したロゼッタ・ストーンも、最終的に大英博物館の収蔵品となっています。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_britain_somerset_house \n\nサマセット・ハウスはストランド地区に新古典様式で建てられており、地下に専用の水門と船着き場を持っています。18世紀の道路はかなりひどい状態で、テムズ川がロンドンの主たる幹線道の役目を渡し、政府役人もこれを頻繁に用いていました。またテムズ川はロンドンの主たる下水道でもあったので、偶然見かけたものにとっては政治家と排せつ物の塊の区別がつかなかったもしれません。\n\nサマセット・ハウスの設計当時、この工事を承認した1775年の議会法に則って政府機関のほとんどを収容する目的で設計されました。スペースが割かれた諸部門には、塩管理局、印紙局、国税局、海軍局(後の海軍本部)、海軍軍需部糧食課、宝くじ局、行商人・呼び売り商人局、貸し馬車局、王領地局測量長官室、前払い金局監査官室、タバコ局、コーンウォール・ランカスター公領局、兵器局、はしけ船長局(運輸用船舶船長室)、国王用遊覧船艇庫局等がありました。その後数十年にわたり、増築作業によって王立アカデミー、王立協会、古美術協会、そして言うまでもなくロンドン大学に部屋が割り振られましたが、これは一部の部局が移転または閉鎖された結果でした。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_france_arc_de_triomphe \n\nあらゆる軍隊や国家は、自らの勝利を記念し、死者の栄誉を称えることを望みます。凱旋門はそうした記念建築物としてはこれまで設計された最大の建築であり、フランス軍の優秀性を大袈裟な程誇示するべく建てられたものです。\n\n1805年のアウステルリッツでのナポレオンの大勝利を記念して作られた凱旋門は、勝利の1年後に建設の依頼が行なわれ、1830年代になるまで完成しませんでした。1810年にナポレオンは木製の原寸大模型を建てることを依頼しましたが、ブルボン家の王政復古後に作業は完全に中止されました。その後ナポレオンの遺体はアンヴァリッド廃兵院に最終的に埋葬される前にこの門を通過しています。門をくぐった珍しい物は彼の遺体だけではなく、第一次世界大戦の終結を記念する勝利のパレードの際には、あるパイロットが式典の一環としてニューポール型複葉機で飛びながらこの門をくぐりました。後に、第一次世界大戦におけるフランス陸軍の名誉ある死者と行方不明者を追悼する無名兵士の墓が凱旋門に加えられています。 FALSE
building_description_texts_long_description_prest_france_palais_bourbon \n\n国家の議会場は、新法制定の作業を真剣に行なう場合があるため、畏敬の念を起させる壮大な建築物で行なうべきです。その目的で建築物を建てることができない場合には、「没落貴族」の非常に豪華な住居が絶好の建物となるでしょう。\n\n歴史的には、ブルボン宮殿はルイ14世の寵姫の一人、モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスが産み彼が庶子と認めたルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボン女公爵のための住居として建てられました。この建物は、非常に壮大ではありますが厳密にはルイーズ・フランソワーズ自身は王室の一員ではないので、宮殿ということはできません。フランス革命後、この建物は国有化され、五百人会の会議場として使用されました。ここは現在も議会に用いられ、フランス共和国の下院である国民議会の討論がここで行なわれています。しかし建物は大幅に改修されているため、ルイーズ・フランソワーズ自身がこの建物を見ても、自分の住居だと認識はできないでしょう。 FALSE